それでも明日は来る
火の爆ぜる音が、妙に遠く聞こえた。
キャンプファイヤーの輪の中では、まだ笑い声が続いている。誰かが手拍子を始めて、別の誰かがそれに乗る。ありふれた林間学校の一場面として見れば、たぶん今この瞬間は青春のど真ん中だった。
けれど僕の周囲だけは、そんな軽い言葉で片づけられない温度を帯びていた。
白須賀は僕の左隣で炎を見つめている。結城は右側で僕の腕を抱えたまま、でもさっきよりほんの少しだけ力を弱めていた。少し離れた場所に立つ天雨は、火の赤を瞳に映しながら、相変わらず静かにこちらを見ている。
僕が「まだ答えを出し切れない」と口にしてしまったことで、何かが決定的に壊れた感じはしなかった。
その代わりに、壊れないまま、もっと厄介なものへ変わった気がした。
待つと言った白須賀も、適当に選ばれる方が嫌だと言った結城も、目を伏せただけで何も言わなかった天雨も、たぶん誰ひとり引いていない。
それが分かるからこそ、火の熱よりも、自分の周囲に集まる感情の方がよほど息苦しかった。
やがてキャンプファイヤーは終盤に入り、生徒たちは班ごとに自然と固まっていった。教師の合図で整列が始まると、ようやく白須賀も結城も僕から身体を離す。離しただけで、終わったわけではないと分かる距離感のままだった。
広場から宿へ戻る下り道は暗かった。足元を照らす小さな灯りと、山の冷たい夜気。列がばらけていく中で、結城が先に僕の袖を引いた。
「沢渡くん、ちょっとだけ」
振り向けば、彼女は昼間みたいな明るい笑顔ではなく、妙に静かな顔をしていた。断る前に、結城は人の流れから少し外れた場所へ僕を引っ張る。宿舎の灯りが届くぎりぎり手前、木立の影に半分隠れるような位置だった。
「さっきの、ほんとなんだよね」
「……何が」
「まだ決めきれないってやつ」
結城は僕の顔を覗き込む。暗がりの中でも、その目の熱だけははっきり見えた。
「嘘ついてない」
「そっか」
短くそう言って、結城は少しだけ俯く。いつもならそこで明るく茶化しそうなのに、今夜はしなかった。
「私ね、沢渡くんが優しいから好きになったわけじゃないんだ」
風が木の葉を揺らす音がする。
「もちろん優しいのも好きだけど、それだけじゃない。困った顔するくせに逃げないところとか、ちゃんと悩むところとか、変にかっこつけきれないところとか、そういうの全部見てきたから好きになったの」
結城はそこで一度笑った。少しだけ、寂しそうに。
「だから、今みたいにすぐ決めないのも沢渡くんっぽいなって思う。……思うけど、やっぱり嫌だな」
最後だけ、声が落ちる。
「待つの、苦手なんだよ。好きな人が自分以外の子にもちゃんと向き合おうとしてるの、ほんとしんどい」
そう言いながら、結城はそっと僕の胸元を掴んだ。
掴むというより、縋るみたいな力加減だった。
「でも、待つよ」
言葉と一緒に、指先へ少しだけ力がこもる。
「待つけど、その代わり忘れないで。私、ちゃんとここにいるから」
そのあと結城は背伸びをして、僕の頬にほんの一瞬だけ唇を触れさせた。
軽い。軽いのに、前よりずっと重かった。
「これは、急がせるためじゃないから」
そう言って結城は離れる。
「ちゃんと悩んで。でも、私のことは薄めないで」
去っていく背中はいつもの明るさを少しだけ取り戻していたのに、その言葉だけが僕の頬に熱みたいに残った。
※ ※ ※
部屋へ戻る前、今度は廊下の窓際で天雨に呼び止められた。
夜の校舎みたいに静かな宿の廊下に、彼女の立つ姿は妙に馴染んでいた。窓の外は暗く、ガラスに映る天雨の横顔だけが、やけに整って見える。
「少しだけいいかしら」
「……うん」
天雨は僕の返事を聞くと、壁際へ半歩寄る。人に聞かれにくい場所を選んでいるのが彼女らしかった。
「さっきの言葉、少しだけ安心したわ」
「安心?」
「無理に答えを作らなかったから」
天雨はまっすぐ僕を見る。
「優しい人ほど、誰も傷つけたくなくて、曖昧なまま頷いてしまうことがあるでしょう」
胸が少し痛んだ。たぶん、僕の中にもそういう弱さはある。
「でも、あなたは今それをしなかった。……そこは、ちゃんと偉いと思う」
「褒められることでもないよ」
「褒めてないわ」
天雨は即答した。
「ただ、最低限の誠実さを見せたって言ってるだけ」
厳しい。厳しいのに、その厳しさの底には、僕を見捨てない温度がある。
「私は待てる方よ」
天雨はそう言って、窓の外へ一度視線を流した。
「待つのは得意。黙って見ているのも、我慢するのも」
けれど次の瞬間、彼女はまた僕へ目を戻す。
「でも、得意なだけで平気なわけじゃない」
声が少しだけ低くなる。
「あなたが他の子に触れるのも、他の子に笑うのも、見ていて嫌。胸の奥がざわざわして、どうしようもなくなる」
そこまで言葉にするのは珍しい。珍しいからこそ、その一つ一つが重かった。
「だから、決めきれないなら決めきれないでいい」
天雨は僕の袖口に指先を置いた。
ほんの少しだけ。触れているかどうかの境目くらいの弱い接触だったのに、妙に意識させられる。
「ただ、最後までちゃんと見て。途中で逃げないで。誰かに押し切られる形で選ばないで」
「……分かってる」
「本当に?」
そこで初めて、天雨はわずかに眉を寄せた。
「あなた、押しに弱いもの」
否定できなかった。
天雨はそんな僕を見て、小さく息をつく。
「だから言ってるの。私は、あなたが私を選ぶなら、それがあなた自身の答えであってほしい」
その言い方は静かなのに、いっそ白須賀や結城よりずっと重たかった。自分を選べと言っているのではない。選ぶなら、他の誰の勢いでもなく、お前自身の意志で選べと迫ってくる。
それはたぶん、逃げ場を塞ぐ種類の優しさだ。
去り際、天雨はほんの一瞬だけ僕の袖をつまんだまま、視線を上げた。
「……でも、私を選んでくれたら嬉しいとは思ってる」
それだけ残して、彼女は静かに歩いていった。
最後のその一言だけが、妙に甘くて反則だった。
※ ※ ※
部屋の前に戻ると、白須賀が待っていた。
廊下の灯りの下に立つ彼女は、キャンプファイヤーの赤を落としたあとでも十分すぎるほど華やかだった。おまけに今は、みんなの前で見せるアイドルの笑顔を少しだけ外しているぶん、余計に目を引く。
「遅かったね」
「少し話してただけ」
「知ってる」
白須賀はそう言って微笑んだ。
「結城さんとも、美鈴ちゃんとも話してたでしょ?」
「……見てたのか」
「見てたっていうか、気になるから見えちゃうの」
さらっと恐ろしいことを言う。
けれど白須賀は、その言葉を冗談にもしなかった。まっすぐ僕の前まで来ると、僕の胸元にそっと触れる。ボタンを直すみたいな自然な手つきで、指先だけが長くそこに留まる。
「沢渡くん」
「なに」
「私、待てるよ」
結城も天雨も似たようなことを言った。けれど、白須賀のそれは少し意味が違って聞こえた。
「待てるけど、その間に諦めるわけじゃないからね」
静かな声だった。笑顔も綺麗だった。なのに、その瞳の奥だけがひどく真剣だ。
「だって私、もうたくさん我慢したもん。学校でも、お仕事でも、ライブでも、ずっとちゃんとしてきた」
東京ドームを成功させて、国民的トップアイドルとしての格をさらに上げた彼女が、それでも僕の前では一人の女の子として立っている。その事実が、時々どうしようもなく重い。
「だから、沢渡くんのことだけは、ちゃんと欲しいと思ってる」
その言葉のあと、白須賀は僕の首元へ手を伸ばした。
指先が肌に触れる。髪のかかる位置を整えるみたいに、耳の下をなぞって、ゆっくりと下りてくる。触れ方はやわらかいのに、僕の呼吸が浅くなるのを楽しんでいるみたいだった。
「今すぐ答えろなんて言わない」
白須賀は、吐息が触れるほど近くで囁いた。
「でも、決めきれない時間の中でも、一番近くにいたいのは私だから」
そこで彼女は、僕の喉元の少し下へ指先を当てたまま、ふっと笑う。
「……ねえ、沢渡くん。ここ、すごく脈早いよ」
自覚していた。していたけれど、言われると余計にどうしようもなくなる。
「白須賀さん」
「うん?」
「そういうの、やめてくれない」
「やめない」
即答だった。
「だって、沢渡くんがちゃんと私を意識してるって分かると、すごく安心するから」
そう言うと、白須賀は最後に一度だけ僕の胸元を整えてから離れた。
「今日はもう無理しないで寝てね」
その台詞だけ聞けば優しい。
でも、その直前まで自分で僕の心拍を上げていた人が言うと、全然優しく聞こえなかった。
※ ※ ※
部屋へ戻ったあとも、すぐには眠れなかった。
上段では結城が寝返りを打つたびに軋みが鳴る。向かいのベッドには白須賀がいて、気配だけがずっと近い。廊下で別れたはずの天雨の言葉も、まだ頭の中に残っていた。
結局僕は、誰の気持ちにもまだ答えを出せていない。
出したいと思っていないわけじゃない。ちゃんと向き合いたいし、曖昧なまま引き延ばして傷つけたいわけでもない。
でも、誰か一人の名前をここで口にした瞬間、他の全部が終わる。終わるだけならまだいい。中途半端な覚悟で選べば、たぶんその選んだ相手すら大事にできない。
そこまで考えて、ふと苦笑した。
男前に描かれるような主人公なら、ここでもっときっぱりしているのかもしれない。けれど今の僕は、どうしてもそこまで割り切れない。
そんなふうに考えているうちに、上段から小さな声が落ちてきた。
「……沢渡くん、起きてる?」
結城だった。
「起きてるけど」
「そっか」
少し間があってから、今度は向かいのベッドから白須賀の声がする。
「私も起きてるよ」
「なんでみんな起きてるんだよ」
そう返すと、暗闇の中で結城が小さく笑った。
「だって、寝たら明日終わっちゃうじゃん」
その一言に、誰もすぐ返事をしなかった。
林間学校は明日で終わる。帰りのバスに乗れば、この濃すぎる二日間もいったん幕を閉じる。その先に何が残るのか、今の僕にはまだ分からない。
暗闇の中で、白須賀が静かに言う。
「終わっても、終わらせないけどね」
「私も」
結城がすぐに続ける。
二人とも冗談みたいな声で言っているのに、その中身は少しも冗談じゃない。
僕は天井を見上げたまま、薄く息を吐いた。
まだ、答えは出ない。
出ないまま、それでも明日は来る。
だからせめて最後まで逃げずに、この林間学校の終わりと、その先に続いていく彼女たちの気持ちを、自分の目で見届けるしかなかった。
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