牽制
白須賀が僕の胸の上で眠っている、という現実を前にして、しばらく身体が動かなかった。
消灯後の薄暗さがまだ部屋に残っている。窓の外は朝焼け前の青さで、部屋の輪郭だけがぼんやり浮かんで見えた。その曖昧な光の中で、白須賀の寝顔だけが妙に鮮明だった。睫毛の長さも、頬に落ちる髪の流れも、胸元へ預けられた体温も、どれも夢にしては生々しすぎる。
しかも、僕の右手は結城に握られている。
指先を絡めるというより、逃がさないように包み込んでいる手つきだった。上段ベッドから降りてきた結城は、僕のすぐ脇で膝をつき、その姿勢のままじっとこちらを見ている。寝起きで少しぼやけた瞳なのに、その奥だけはしっかり熱を持っていた。
「……朝から情報量が多すぎるんだけど」
ようやく絞り出した僕の声に、結城が小さく唇を尖らせる。
「私だってびっくりしたよ。起きたら白須賀さんが沢渡くんの上で寝てるんだもん」
「僕の意思じゃない」
「分かってる」
そう言いながら、結城は握った手を離さなかった。
「でも、見たくないもの見せられた感じ」
その言葉には冗談っぽさがあった。けれど、指先にこもる力は冗談では済まない種類のものだった。
僕は困って、もう一度白須賀の肩へそっと触れる。
「白須賀さん。起きて」
小声で呼ぶと、彼女の睫毛がかすかに震えた。眠たげに眉が寄って、それからゆっくりと目が開く。
至近距離で目が合った。
寝起きの白須賀は、普段の完璧なアイドルの顔より少しだけ無防備だった。けれど、僕を認識した瞬間、その瞳の奥にすぐ熱が戻る。
「……おはよう、沢渡くん」
まだ眠気を含んだ声だった。
「おはよう、じゃなくて。なんでここで寝てるの」
「離れたくなかったから」
あまりにも自然に言われて、僕は言葉を失う。
しかも白須賀はそれを恥ずかしいとも思っていないらしい。僕の胸元へ頬を寄せたまま、さらに腕へ少しだけ力を入れた。
「昨日、消灯したあともずっと沢渡くんのこと考えてたら、会いに来たくなっちゃって」
「会いに来る、で済む距離じゃないだろ」
「でも、ここが一番落ち着いたの」
その言い方は、甘えているみたいでいて、実際はかなりひどい。僕を自分の安息の場所みたいに扱っている。
結城がそこで口を挟んだ。
「ずるいよ、それ」
白須賀はようやく結城の存在を正面から見た。薄暗い朝の空気の中でも、その笑顔は綺麗だった。綺麗で、少しも隙がない。
「だって、本当にそう思ったんだもん」
「思ったからって、勝手に潜り込むのは反則じゃない?」
「結城さんにだけは言われたくないかも」
空気がぴんと張る。
僕は慌てて身を起こそうとしたが、白須賀がまだ半分身体を預けているせいで上手くいかない。結城も手を離さない。結果として、二人に挟まれたまま、僕だけ身動きが取れない形になった。
「……朝食までに体力使わせるのやめてくれない?」
そう言うと、白須賀はくすっと笑った。
「沢渡くん、そういう言い方するんだ」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「私かな」
悪びれた様子が全然ない。
それどころか、白須賀はようやく僕から身体を起こしたあとも、名残惜しそうに指先で僕の胸元を整えた。寝癖でも直すみたいに、ごく自然な仕草で。結城はそれを見ながら、今度は僕の手の甲へ親指をゆっくり滑らせる。
「じゃあ次は、私が起こしてあげようかな」
「いらないから」
「えー、絶対やさしくするのに」
朝から色々と限界だった。
※ ※ ※
朝食会場は、両校の生徒で案の定賑わっていた。長机に並べられた和食の盆、味噌汁の湯気、焼き魚の匂い。いかにも合宿らしい朝の風景だ。けれど、その中で白須賀だけはやっぱり浮いて見えた。
華やかさが違う。
制服ではなくラフなジャージ姿でも、周囲の視線を集める力がまったく衰えていない。むしろ髪をゆるくまとめただけの無防備さが逆に目を引いて、他校の男子までそわそわしていた。
「白須賀さん、朝でもかわいい……」
「寝起きであれはずるいだろ」
「芸能人ってすげえな……」
そんな囁きがあちこちから聞こえる。本人は慣れたもので、控えめに笑って軽く会釈するだけだ。その立ち振る舞いがまた完璧で、余計に“本物”を感じさせた。
けれど、僕の向かいに座った時の白須賀は、その完璧さを少しだけ外した。
「沢渡くん、ちゃんと寝られた?」
「……途中からは」
「よかった」
何がよかったんだ、と言いたいのに、白須賀は涼しい顔で味噌汁を口に運ぶ。卓上では何もしていないように見えて、テーブルの下では彼女の足先が時々僕の靴へ軽く触れた。偶然を装うには回数が多すぎる。
結城は僕の斜め隣に座っていたが、その様子に当然気づいていたらしい。箸を動かす手を止めずに、しかし目だけでこちらを見ている。
「沢渡くんって、朝はご飯派なんだ」
「普通にそうだけど」
「へえ。じゃあ今度、私がお弁当作っても食べてくれる?」
「話が飛びすぎじゃない?」
「飛んでないよ。先のこと考えてるだけ」
明るい調子なのに、内容は妙に重い。白須賀がそこでやわらかく笑った。
「結城さんって、意外と押しが強いんだね」
「白須賀さんに比べたら全然だよ」
「そうかな」
笑顔のまま二人が見合う。朝の食堂でやるには空気が物騒だった。
そこへ、外班の集合時間が近いと知らせる教師の声が入る。僕はそれを救いの合図みたいに聞いた。
※ ※ ※
午前中の外活動は、班ごとの沢登りと簡単な炊事準備だった。
僕の外班は昨日と同じく、雪見、瑠美、天雨、僕。朝の吊り橋よりさらに足場が悪く、水辺の岩は滑りやすい。雪見は相変わらず調子が軽く、危ない箇所でも妙に身軽に飛んでいく。瑠美は最初こそ怖がっていたが、僕が先に足場を確認してから手を差し出すと、素直にその手を取った。
「ありがと。沢渡くん、こういうの慣れてる?」
「慣れてはないけど、転ぶよりはいいだろ」
「ほんと王子様っぽいね」
瑠美はそう言って笑った。川音に混じって響くその声は軽やかだったが、手を離す時だけ少し名残惜しそうだった。
それを見ていた天雨は、次の岩場で何も言わず僕の袖を引いた。
「そこ、左の方が安定してる」
「……ありがとう」
「別に」
短くそう返すが、天雨はそのあとも僕のすぐ後ろを歩き続けた。狭い場所では背中へ視線が刺さるほど近く、広い場所では隣へ並ぶ。まるで、僕の周りにできるだけ空きを作らないつもりみたいに。
途中、班ごとに薪を運ぶ課題があった。雪見が「重いの男でやるわ」と大きな束を抱えたが、歩き出してすぐバランスを崩しかける。僕が手伝おうとすると、天雨が先に動いた。
「それ、半分持つわ」
「え、天雨さん結構たくましい?」
「黙って運んで」
そう言いつつも、彼女は僕が残りを抱えやすいように束の位置を調整した。手際がいい。気遣いも自然だ。けれど、その横顔は少しだけ不機嫌そうだった。
休憩中にようやく理由が分かった。
瑠美が水筒を飲みながら、僕へ笑いかけてきたのだ。
「ねえ、昨日より今日の方が仲良くなれてる気がする」
「そうかもね」
「じゃあ林間学校終わったあとも、ちょっと期待していい?」
その瞬間、天雨が僕の手から空のボトルを取り上げた。
「それ、私が捨ててくる」
「いや、僕が――」
「いいから」
有無を言わせない口調だった。去っていく背中はいつも通り静かなのに、どう見ても機嫌がよくない。雪見がそれを見て苦笑し、瑠美は「ちょっと怒らせちゃったかな」と肩をすくめた。
だが問題は、そのあとだった。
炊事場に戻ったところで、白須賀の班も近くのかまどを使っていた。エプロン姿の白須賀は、それだけで妙に破壊力がある。トップアイドルが家庭的な格好で野菜を切っている、その非現実感に他校の男子まで見入っていた。
「包丁持つ手まで綺麗なんだけど」
「白須賀さん、CMみたい……」
囁きが飛ぶ中、白須賀は完璧な笑顔で応じている。アイドルらしい、誰に見られても隙のない顔だ。
けれど、僕に気づいた瞬間、その笑顔の質がほんの少し変わった。
「沢渡くん、ちゃんと働いてる?」
「一応」
「えらいね」
その一言が、周囲にはただの軽口に聞こえるのが厄介だった。実際には、もっと親密な空気が混じっている。
しかも白須賀は、鍋をかき混ぜながらさりげなく続けた。
「あとで少しだけ二人になれたら嬉しいな」
「今それ言う?」
「言える時に言わないと、取られちゃうかもしれないから」
笑顔のまま、そんなことを言う。
炊き上がったカレーを班ごとに食べる頃には、僕はもうかなり消耗していた。外班では瑠美と天雨の温度差に挟まれ、生活班では白須賀と結城の視線が待っている。その全部に向き合うと決めたのは自分だが、決めたからといって楽になるわけではない。
※ ※ ※
夜。
入浴と片付けを終えて部屋へ戻ると、空気が少し変わっていた。
窓の外は完全に暗く、部屋の中には小さな間接照明だけが残っている。白須賀はベッドに座って髪を乾かしていた。濡れた髪が肩へ落ち、普段より薄い化粧気のない顔が、逆に色っぽい。結城はジャージ姿で僕のベッドへ腰掛け、まるでそこが自分の席みたいな顔をしていた。
「遅い」
結城が言う。
「待ってたんだけど」
「風呂上がりくらい普通に待てるだろ」
「待てないから言ってるの」
そう返しながら、結城は僕の手首を引いた。勢いのままベッドへ座らされる。すると反対側から白須賀が近づいてきて、僕の目の前に立った。
「沢渡くん」
「……なに」
「今日、一日頑張ったね」
妙にやさしい声だった。そして次の瞬間、白須賀の指先が僕の首筋へ触れる。風呂上がりでまだ熱の残る肌に、ひんやりした指が滑った。
「汗、ちゃんと流した?」
「流したけど」
「でも、まだ熱い」
首から鎖骨へ、ほんの少しだけ触れては離れる指先。色っぽいのに、本人は涼しい顔をしている。結城がそれを見て、すぐ僕の反対側へ身を寄せた。
「白須賀さんだけずるい」
「何が?」
「そうやって、自然に触るの」
「自然じゃないけど」
白須賀は平然と言った。結城が一瞬詰まる。その隙に、今度は結城が僕の肩へ頬を寄せた。
「じゃあ私も自然じゃなく触る」
「宣言してからやるなよ」
けれど、結城は僕の肩口に顔を埋めるみたいに寄りかかったまま動かない。柔らかい髪が顎に触れ、体温がじわりと伝わってくる。白須賀はそんな結城を見下ろし、それからふっと微笑んだ。
「沢渡くん、疲れてるでしょ」
「まあ、少しは」
「なら、私たちのどっちを選ぶ?」
「何の話?」
「今夜、隣で寝る係」
意味が分からなすぎて、一瞬本気で黙った。
白須賀は冗談めかしていない。結城も当然のように真剣な顔をしている。二人とも、“そういうもの”として僕へ選択を迫っていた。
「選ばないから」
「えー」
「残念」
残念、じゃない。
僕は額を押さえてため息をついた。向き合うと決めたはずなのに、二人の圧が強すぎて押し返すたびに体力が削られる。
「……いいか、二人とも。こういうので張り合うのはやめてくれ」
少しだけ声を低くして言うと、二人とも黙った。
「僕は逃げない。でも、誰かを見せつけるために誰かを使うのは違うだろ。ちゃんと向き合うから、だから少しは落ち着いてくれ」
沈黙のあと、結城が先に目を伏せた。
「……沢渡くんって、そういう時だけずるいよね」
「ずるくない」
「ずるいよ。ちゃんとしたこと言うから」
白須賀はしばらく僕を見ていたが、やがて小さく笑った。
「でも、そういうところも好き」
結局、まったく効いていない気がした。
それでもその夜は、二人とも自分のベッドへ戻った。戻っただけで、諦めたわけではないと分かる静けさだった。明かりが落ちたあとも、上段から結城の寝返りの音が聞こえ、向かいでは白須賀の気配がずっとこちらを向いている気がした。
明日は二日目だ。
キャンプファイヤーがある。噂話めいた“火を一緒に見た男女は結ばれる”なんてありきたりな伝説まで付いてくる夜だ。
暗闇の中で目を閉じながら、僕はようやく理解した。
この林間学校の本番は、きっと明日だ。
そしてその前夜でさえ、僕はもう十分すぎるほど追い詰められていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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