林間学校 当日
林間学校当日。
朝の光がまだやわらかく車内に差し込む中、僕はバスの座席でひとり、妙に落ち着かない空気の中にいた。
理由は簡単だ。
この空間に、まだあいつがいないからだ。
今はただの移動時間のはずなのに、教室とも家とも違う密閉された車内は、それだけで妙な緊張感を孕んでいる。前後の席からは、菓子の袋が擦れる音や、落ち着きのない笑い声、浮き足立った会話が途切れなく聞こえてくる。窓の外では校舎が朝の光を浴びて白く光っていて、まるでこれから始まる二日間を無責任に祝福しているみたいだった。
けれど、僕の胸の内はそんな爽やかなものではない。
どうせ、あいつが来た瞬間、この空間の温度は変わる。
そう思っていた矢先だった。
「あ! 白須賀さん来たよ!」
「来た! 天使が! 来たぞ!」
「マジで今日も可愛すぎんだろ……!」
後方から沸き立つような声が上がる。
それを聞いた瞬間、僕は小さく息を吐いた。
……まったく、白須賀という女の子は、今日も相変わらず“国民的トップアイドル”だった。
みんなは知らない。
白須賀沙也加という存在の、表面の綺麗さの下にある、底の見えない感情の深さを。
バスの入り口から姿を現した白須賀は、周囲の視線を一身に浴びながら、少しも気負った様子を見せなかった。
明るい朝に溶け込むようなやわらかな笑顔。きっちりと整えられた髪。制服の着こなしまで一切の隙がない。そこに立っているだけで、周囲の空気を“自分が映えるための背景”に変えてしまうような圧倒的な華があった。
「みんなー! おはよ! 二日間よろしくね!」
手を小さく振りながら告げる声音まで完璧だった。
明るくて、親しみやすくて、でも安っぽくはない。誰に向けても平等に見えるその笑顔に、男子たちは揃って頬を緩ませ、女子たちも「さすがだね」と感心したように囁き合っている。
その後ろから、続くように天雨も姿を見せた。
天雨美鈴。
彼女もまた、僕には勿体ないくらい綺麗な女の子だ。
白須賀のように場を照らす明るさではなく、音もなく視線を奪っていく静かな美しさ。淡々として見えるのに、その一つ一つの仕草に妙な気品がある。周囲に向ける態度は控えめで、必要以上に愛想を振りまくこともない。けれど、その距離感すら彼女らしさとして成立してしまうのだから、ずるいと思う。
「さすが、クラスの二大天使様だ!」
「俺たちのキューピット!」
「男子は相変わらずね。でもまあ、否定はできないかも」
そんな声が飛び交うたび、僕はまたひとつ、心の中でため息をついた。
天使、か。
たしかに見た目だけなら、そう呼びたくなるのも分かる。
でも実際はどうだろう。
僕だけは知っている。白須賀も、天雨も、そんな生易しい言葉で片づけられる存在じゃない。優しく微笑んだまま、平然と相手の心の奥へ踏み込んできて、逃げ道を少しずつ塞いでいく。綺麗で、可愛くて、だからこそ厄介だ。
今日から林間学校が始まる。
もうひとつの学校の一年生たちと合流し、二日間を共に過ごす行事。たった二日。けれど、その二日で色々なものが大きく動く気がしてならなかった。
そんなことを考えながら窓の外へ視線を向けていると、不意に隣の座席が沈んだ。
ふわり、と甘い香りがする。
「今日から二日間、一緒にひとつ屋根の下で過ごせるね」
振り向くまでもなく分かった。
白須賀だった。
彼女は当然のように僕の隣へ座り、期待に満ちた眼差しをまっすぐこちらへ向けてくる。その視線はあまりにも素直で、あまりにも熱を帯びていて、教室で誰かに見せるそれとは明らかに違っていた。
「そうだね。何もないといいんだが」
僕がそう返すと、白須賀はにっこりと笑う。
「そうだね。何もないといいね」
言葉だけ聞けば同意だった。
でも、その声音には妙な含みがあった。
何もないといい――そう言っているくせに、まるで“何かが起こること”を内心で待っているみたいな、そんな響きがある。
その違和感を飲み込めないまま、僕は前方へ視線を向けた。
前の方の席に座った天雨が、こちらを見ていた。
正確には、僕の隣に座る白須賀を見ているのか、僕ごとその光景を見ているのか分からない。ただ、その表情が明らかに不機嫌だったことだけは分かった。
感情を大きく顔に出すタイプじゃない天雨が、これだけ分かりやすく不満を滲ませている。それだけで、隣に座る白須賀の存在の重さを嫌でも実感してしまう。
白須賀はそんな前方からの視線にも気づいているはずなのに、まったく意に介した様子を見せなかった。
むしろ、少しだけ僕との距離を詰めてくる。
制服の袖が擦れ合うくらい、近く。
「沢渡くん、嬉しくないの?」
「何が?」
「私が隣で」
白須賀はそう言って、小さく首を傾げた。
可愛らしい仕草だった。何も知らない人が見たら、ただ好きな男の子に甘えている女の子にしか見えないだろう。
でも、その目の奥は違う。
笑っているのに、僕の返答ひとつを逃さないみたいにじっと見ている。期待と執着が綺麗に混ざり合って、逃げ場のない温度になっている。
「……嬉しいとか、そういうのをここで聞くなよ」
「どうして?」
「周りに聞かれたら面倒だろ」
「面倒でもいいよ」
即答だった。
「私は、沢渡くんの隣にいるのが当たり前になればいいって思ってるし」
「そういう言い方」
「変じゃないでしょ?」
白須賀はふわりと笑う。
「だって、今日から二日間ずっと一緒にいられるんだよ? 移動も、ご飯も、行動時間も、夜だってある。そんなの、期待しない方が無理じゃない?」
その言葉の最後だけ、少し甘く沈んだ。
耳に残る言い方だった。
僕は返事をしないまま、再び窓の外へ目を向ける。校門の前で見送る教師たちが小さく手を振り、エンジン音が低く唸り始めた。
やがてバスがゆっくりと動き出す。
※ ※ ※
発車してしばらくすると、案の定、車内は一気に騒がしくなった。
昨日までの学校とは違う、非日常の浮ついた空気。窓の外の景色が市街地から徐々に自然の多い風景へ変わっていくにつれて、車内のざわめきもどこか弾んでいく。
誰かが菓子を回し、誰かが班分けの話をし、後ろの方ではすでに小さな恋愛トークまで始まっていた。
そんな中、不意に前の席の女子グループがこちらを振り向いた。
「ねえ、沢渡くんと白須賀さんって、いつも一緒にいるイメージあるんだけど、仲良いの?」
明るい好奇心に満ちた問いだった。
僕がどう答えるべきか考えるより早く、白須賀がすっと前に出る。
「仲は普通かな?」
白須賀は肩をすくめるみたいにして笑った。
「沢渡くんとは、それなりの関係ってところだよ」
「それなりってなにー?」
「気になるんだけど!」
「え、もしかしていい感じとか?」
女子たちが一斉に色めき立つ。
白須賀はその反応すら楽しむみたいに、くすっと笑ってみせた。
「どうだろうね?」
――さすが、国民的アイドルだ。
嘘のつき方まで完璧だった。
曖昧に濁しているようで、余計な想像をさせる余白だけは残す。しかも、その場にいる誰にも不自然に思わせない。こういう立ち回りの上手さは、たぶん生まれつきだけじゃなく、今まで積み重ねてきた経験の結果でもあるんだろう。
けれど、その完璧な嘘も“僕以外に向けるためのもの”だ。
僕に向ける感情だけは、白須賀はほとんど隠さない。
それが、時々ひどく怖い。
やがて話題は自然と別の方向へ移っていった。
今度は僕と天雨のことだ。
「そういえば沢渡くんって、天雨さんとも話してるよね?」
「前も一緒にいたの見たことあるかも」
「え、沢渡くん、二大天使と両方仲いい感じ?」
軽い調子の質問が飛び交う。
前の席の天雨は、聞こえていないふりをしているくせに、耳だけは明らかにこちらへ向いていた。横顔を見れば、口元がほんの少しだけ緩んでいる。あれはたぶん、悪い気はしていない顔だ。
一方で、隣の白須賀は少しだけつまらなそうだった。
表情を大きく崩してはいない。けれど、笑みの角度がわずかに浅くなっている。膝の上で重ねた指先が、さっきより少しだけ強く組まれているのが見えた。
……どうしてこうも、僕たちの二大天使(仮)は重たい感情を抱えているんだろうか。
見た目は綺麗で、周囲からは天使だなんだと持ち上げられているくせに、その実、胸の奥ではきっとぜんぶ真逆だ。独占したいとか、取られたくないとか、自分だけを見ていてほしいとか。そういう濁った感情を、人一倍綺麗な顔の裏で煮詰めている。
「ねえ、沢渡くん」
車内の話題が一瞬だけ逸れた、その隙を狙ったみたいに。
白須賀が僕の耳元へそっと顔を寄せてきた。
肩が触れるどころじゃない、吐息まで届く距離。
甘い香りが濃くなる。
反射的に身を引こうとしたけれど、その前に囁かれた。
「私は沢渡くんが大好きだよ♡」
耳に直接流し込まれるような、やわらかく甘い声だった。
あまりにも近くて、あまりにも不意打ちで、僕の身体はびくりと震える。
心臓が一気に跳ねた。
白須賀はそんな僕の反応を見て、満足そうに口元を緩める。
「白須賀さん、そういうのはあまり外でやるものじゃない」
小声でそう返すのが精一杯だった。
すると白須賀は、いたずらが成功した子供みたいにくすりと笑う。
「でも、言いたくなっちゃったんだもん」
悪びれた様子はまるでない。
「だって、沢渡くん。さっきから天雨さんのことも気にしてるし、周りにも愛想よくしてるし……私、ちょっと嫌だったから」
「嫌って」
「うん。嫌」
白須賀ははっきり言い切った。
そのくせ表情はあくまで柔らかいままだ。
「だから、ちゃんと聞かせておこうと思って。私は沢渡くんのことが好きだよ、って」
囁くたびに、言葉がじわじわ染み込んでくる。
「忘れられたら困るし」
最後の一言だけ、妙に重かった。
僕はそれ以上言葉を返せず、ただ前を向くしかなかった。
前方の席では、天雨がこちらを見ていた。
その目は静かだった。でも、静かだからこそ分かる。白須賀が僕に何をしたのか、たぶん全部察している。そして察した上で、機嫌をさらに悪くしている。
林間学校初日。
まだバスが走り出したばかりだというのに、もうすでに胃が痛い。
この二日間、本当に何もないまま終わるわけがない。
そう思わせるには十分すぎるほど、僕の左右と前方には、重すぎる感情を抱えた美少女たちが揃いすぎていた。
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