好きな人は……
林間学校前日。
昼休みのチャイムが鳴って間もなく、僕は一人で廊下を歩いていた。行き先は購買だ。いつものように屋上で昼を済ませるつもりで、そのためのパンを買いに向かっている。
廊下は昼休み特有のざわめきに満ちていた。教室からあふれてくる笑い声、足早に購買へ向かう生徒たち、窓の外から差し込む秋のやわらかな陽射し。明日から林間学校ということもあってか、どこか浮ついた空気が学校全体に漂っている。
その中を歩きながら、僕はぼんやりと考えていた。
明日から始まる二日間で、きっと色々なことが動く。
そんなことを考えているうちに、購買へ辿り着く。
平台の上には、惣菜パンや菓子パンが所狭しと並べられていた。焼き立てではないのに、混じり合ったパンの匂いがやけに食欲を刺激する。コロッケパン、たまごサンド、メロンパン、カレーパン――その中で、僕の視線を真っ先に引いたのは焼きそばパンだった。
この学校ではやたら人気が高くて、昼休みが始まって少しすると大抵なくなっている。まだ残っていたことに軽く感謝しながら、僕はそれに手を伸ばした。
――その時だった。
別方向から伸びてきた白い指先と、僕の手が軽く触れ合う。
「あ、ごめんなさい!」
「すみません」
反射的に謝って、顔を上げる。
そこにいたのは、凛とした空気を纏った青髪の美少女だった。
すっと通った背筋。令嬢じみた品のある立ち姿。整いすぎていると言っていい顔立ち。落ち着いた微笑みすら絵になるその人は、この学校で知らない者のいない存在だった。
生徒会長――桜井美代先輩。
「……君、もしかして柊ちゃんが気にかけてる後輩くんだよね?」
やわらかな口調だった。けれど、ただ優しいだけではない。こちらを観察するような、少し試すような響きが混じっている。
「あ、えっと……沢渡裕二です」
「私は桜井美代。柊ちゃんとは昔からの親友なの」
そう名乗ると、桜井先輩は一度だけ焼きそばパンに視線を落としたあと、ふっと微笑んだ。
「これ、裕二くんが取っていいよ」
「え、でも」
「大丈夫。私は別のにするから」
そう言って、彼女は僕に焼きそばパンを譲ると、隣にあったハムチーズパンを手に取った。動作の一つ一つが妙に洗練されていて、購買の雑多な空気の中だと余計に目立つ。
会計を済ませたあと、桜井先輩はそのまま自然な流れで僕の横に並んだ。
「ね、裕二くん。パン譲った代わりによかったらお昼一緒にしない?」
「え?」
「今日、誰とも食べる予定がないの。せっかくだし、少し話してみたいなって」
生徒会長からそんなふうに誘われるとは思っていなかった。
断る理由も特にはない。……本当は、屋上に行けば白須賀たちが待っているはずだが、わざわざ先輩の誘いを断るほどでもない気がした。
「別に僕はいいですけど……」
「よかった」
桜井先輩は上品に微笑む。
「じゃあ、生徒会室で食べよっか」
※ ※ ※
何度か柊先輩に呼び出されて入ったことのある生徒会室。
見慣れているはずなのに、今日は妙に緊張した。
扉を開けると、整然と並んだ机と棚、壁に貼られた行事予定表、差し込む昼の光に照らされた静かな空間が広がる。昼休みの喧騒が嘘みたいに、この部屋だけ別の時間が流れているようだった。
桜井先輩に促されるまま席につくと、彼女は僕のすぐ隣に腰掛けた。
向かいではなく、隣。
それだけのことなのに、なぜだか少し落ち着かない。
「ね、裕二くん」
パンの袋を開けながら、桜井先輩がこちらを見る。
「裕二くんは、柊ちゃんとどんな関係なの?」
最近、そういうことを聞かれる機会が増えた。
誰とどういう関係なのか。どう思っているのか。どこまで本気なのか。
そのたびに、僕は曖昧な言葉で濁してきた。けれど今もまた、結局出てきたのは同じ答えだった。
「……友達、ですかね」
「へぇ」
桜井先輩は小さく目を細める。
「でも、私から見るに、柊ちゃんは裕二くんのことを友達としては見てない気がするな」
「それはどういう……」
「どういう意味なんだろうね?」
くすり、と。
桜井先輩は少し意地悪そうに笑った。あくまで柔らかい雰囲気を崩さないまま、こちらの反応を楽しんでいるような笑みだった。
僕は苦笑いするしかない。
「先輩って、そういう言い方するんですね」
「するよ。だって裕二くん、素直に聞いてくると教えてもらえないって顔してるし」
「そんな顔してました?」
「してた」
即答だった。
しかも楽しそうだ。
そのまま少しの沈黙が落ちる。パンの袋を開く音だけが静かな部屋に小さく響いた。
先に口を開いたのは僕の方だった。
「桜井先輩って、好きな人ができた時はどうするんですか?」
「ん?」
「たしか、彼氏いますよね」
「いるよ」
桜井先輩はパンをちぎりながら、少し考えるように視線を上げた。
「うーん……そうだね。好きになったら、絶対に取られないようにするかな」
「取られないように?」
「うん。だる絡みする」
「だる絡み……」
あまりにも率直な表現に、思わず聞き返してしまう。
すると桜井先輩は、どこか楽しそうに肩を揺らした。
「だって、好きな人って放っておいたらどっか行っちゃうかもしれないでしょ? だから、こっちを見ざるを得ないくらいに近くに行くの。連絡して、話しかけて、気にして、覚えさせて、ちゃんと自分を意識させる」
さらりと言っているのに、その内容は案外重い。
「それって結構……」
「重い?」
「少し」
「そうかもね。でも、好きって本来それくらい面倒なものじゃない?」
桜井先輩はそう言って笑った。
落ち着いたおしとやかな雰囲気の中に、意外なほどはっきりした独占欲が透けて見える。
「なに、裕二くん。気になる子でもいるの?」
不意にそう問われて、僕は一瞬だけ黙った。
誤魔化そうと思えば誤魔化せたはずだ。でも、なぜだか今日はそれができなかった。林間学校の前日だからか、もう自分の気持ちから目を逸らしたくなかったからか。
「……はい」
声に出した途端、自分の中で何かが定まるのを感じた。
「夏休みが終わったあとになって、ようやく自分がその人のことを好きなんだって、自覚しました」
「へぇ。いいじゃん」
桜井先輩は少しだけ目を丸くする。
「誰なの?」
「それは――」
僕は、その名前を口にした。
言葉にした瞬間、胸の奥が妙に熱くなる。恥ずかしさと、覚悟と、諦めきれない想いが入り混じって、上手く息ができなくなるみたいだった。
桜井先輩は一瞬だけ驚いた顔をした。
そしてすぐに、笑った。
けれど、その笑みの奥に、ほんのわずかに寂しさのようなものが落ちた気がした。
「……そっか」
小さくそう呟いてから、彼女はいつもの柔らかな声音に戻る。
「付き合えるといいね、裕二くん」
「……ですね」
それ以上、僕たちはその話を深くしなかった。
でも、生徒会室に流れる静かな空気の中で、自分の気持ちだけはもう誤魔化しようがなくなっていた。
※ ※ ※
昼食を終えた僕は、生徒会室をあとにした。
廊下へ出ると、昼休みも後半に差しかかっていて、さっきより少し人の流れが落ち着いている。窓から差し込む光が長く床を照らし、校舎の白い壁をやわらかく染めていた。
そのまま何気なく前を見る。
そして、足が止まった。
少し先の廊下に、白須賀が立っていた。
いつものように綺麗だった。光を受けた髪も、整いすぎているくらい整った顔立ちも、ただそこにいるだけで目を引く。けれど今は、その美しさの輪郭に、冷たいものが薄くまとわりついていた。
「ねえ、沢渡くん」
白須賀はまっすぐ僕を見る。
「今、誰とご飯食べてたの?」
声は穏やかだった。責めるような強さはない。ないのに、それがかえって怖かった。
「私、ずっと屋上にいたよ」
「あ……ごめん。ちょっと生徒会長に昼食誘われてさ。屋上には行けなかった」
「そっか」
白須賀は小さく頷く。
「私より、生徒会長の方を取ったんだね」
「その言い方は少し大袈裟じゃないか?」
「大袈裟じゃないよ」
即座に返ってくる。
白須賀はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。上履きの音が静かな廊下に小さく響く。一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、逃げ場がなくなっていくような感覚がした。
「私はずっと本気だもん」
白須賀は僕の目の前で立ち止まる。
近い。近いのに、その表情はひどく静かだった。
「沢渡くんは、私にとってとても大切な人なの。だから、私を優先してほしかったな」
「白須賀……」
「私、ちゃんと待ってたんだよ?」
その言い方が妙に胸に刺さる。
責めるよりも、拗ねるよりも、静かに事実を突きつけるような言葉だったからかもしれない。
そして次の瞬間、白須賀はそっと僕の手を取った。
細く綺麗な指が、僕の指を包み込む。そのまま彼女は僕の手を自分の口元へ導いた。
柔らかな唇に、僕の指先が触れる。
心臓が一気に跳ねた。
白須賀は僕の指を使って、自分の唇の輪郭をなぞらせるようにゆっくり動かした。湿った熱が指先に移る。艶やかな感触がやけに生々しくて、頭が追いつかない。
「ねえ、沢渡くん」
囁く声は、甘いのに逃げ道を残さない。
「私、もう我慢できそうにないの」
そう言うと、白須賀は薄く唇を開き――そのまま、僕の指先を軽く噛んだ。
「っ……」
痛みはほとんどない。
けれど、ぞくりとするような感覚が背筋を走る。甘噛みみたいにやわらかいのに、そこには明らかな所有の意思があった。
白須賀は僕の指を離すと、潤んだような光を宿した瞳でこちらを見上げる。
「次、また他の女の子を優先したら」
彼女はにこりと笑った。
完璧なアイドルみたいな、見惚れるほど綺麗な笑顔だった。
なのに、その奥にある感情は少しも綺麗なだけではない。
「私の体が、沢渡くんに教えてあげる」
声がひどく優しい。
優しいのに、背筋が冷えた。
「誰が一番優先されるべきなのか」
廊下を吹き抜けた風が、白須賀の髪を揺らした。
その表情はどこか危うくて、それでいて目を逸らせないほど美しい。好きという言葉だけでは説明できない感情が、彼女の中でどろりと濃度を増しているのが分かる。
「……わかった。気をつける」
そう答えるしかなかった。
すると、白須賀は満足そうに目を細める。
「うん。わかったなら、よろしい」
さっきまでの危うさが嘘みたいに、彼女は明るく微笑んだ。
けれど、僕の指先にはまだ、彼女の唇の熱と歯の感触が残っていた。
明日から林間学校だ。
そう心の中で言い聞かせて、ふと窓の方へ視線を向ける。
ガラスに映った自分の顔は、少しだけ険しくて、少しだけ引き締まっていた。
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