新学期
夏休みが明けて、僕はいつも通り学校へ登校した。
通学路には面倒くさそうに歩く学生や、急ぎ足の社会人が混ざって流れていく。僕もそのうちの一人だ。セミの声が、夏の終わりを知らせるように少しだけ弱くなっていた。
校門を抜けて廊下を歩き、教室に入る。窓から朝の光が差し込んでいて、まだ人の少ない教室は静かだった。
そして、隣の席には白須賀がいた。
「おはよう、白須賀さん」
「おはよ、沢渡くん」
何気ない挨拶を交わして、僕は席に着いた。まるでこの夏に起きたことが全部夢だったんじゃないかと思えるほど、教室は穏やかな朝の空気に包まれている。
でも――夢じゃなかった。
「白須賀さん、あの日は一緒にいてくれてありがとう」
素直にそう言うと、白須賀はぱちりと瞬きをした。困惑したような、それでいてどこか嬉しそうな顔で、僕をじっと見ている。
「沢渡くん、熱でもある?」
「え?」
「あ、いや……沢渡くんが正直にお礼を言うなんて珍しいな、と思って」
白須賀の頬が、じわりと赤く染まる。視線を少し逸らして、それでも僕から完全には離さない。
「みんなの気持ちに応える、て決めたから」
今の僕にできることをやりたい。大切だと思っている人たちの気持ちには、ちゃんと向き合っていきたい。そう決めた。夏の終わり、花火の下で白須賀を抱きしめながら、じわじわとそう思えるようになっていた。
「そっか……じゃあ私のこの感情にも、応えてくれるってことだよね」
白須賀がそう言って、体をこちらへ寄せてくる。肩が触れる距離まで近づいて、甘い香りが届いてくる。僕は少しだけ迷ってから、白須賀の頭にそっと手を乗せた。さらさらした髪が、指の間を流れていく。
「応えるよ。だから、白須賀さんも僕の気持ちに応えてほしいな」
「……ちょ、ちょっと。調子狂うな……」
白須賀は完全に照れた様子で顔を逸らした。耳まで赤い。あの東京ドームで堂々と僕にキスをしてきた人間と同一人物とは思えない。
「沢渡くん、あなたどうしたの?」
声のした方へ視線を向けると、天雨がいた。登校してきたばかりらしく、鞄を持ったまま僕を見ている。怪しむというより、確かめるような目だった。
「今度はちゃんと、みんなの気持ちに応えようかと思っただけだよ」
「……そうなんだ」
天雨は少しの間だけ黙って、それから隣の席の白須賀へ視線を向けた。白須賀は両手で顔を覆って、それでも興奮を隠しきれていない様子で肩が小刻みに震えている。
「だから白須賀さんはああなってるんだ」
天雨は静かにそう言って、それから僕の方へ視線を戻した。その目が、少しだけ温度を持っていた。
「人の気持ちに応えていくのは良いけれど。あまりの重さに潰れないようにね」
「分かってるよ。美鈴」
気づいたら、そう口から出ていた。
「え……今、なんて……」
天雨の動きが止まった。鞄を持ったまま、固まっている。黒い瞳が、少し揺れた。
少しだけ間があった。
その沈黙を割るように、担任の先生が教壇に立った。先生の声で立っていたクラスメイトたちが席に戻っていく。天雨も、戸惑いを顔に貼り付けたまま自分の席へ向かった。
呼び捨てにしたのは少し踏み込みすぎたか。でも、みんなの気持ちに応えると決めたなら、僕も変わっていかないといけない。
「ねえ、沢渡くん」
白須賀が、こちらへ顔を向けてくる。からかうような顔だが、その奥に本気の色が混じっているのは分かった。
「私のことも下の名前で呼んでよ」
「白須賀さんのことは……ちゃんとした関係になってから呼びたいな」
白須賀がきょとんとした顔をした。次の瞬間、耳の先まで赤くなって、そのまま僕から顔を逸らす。
「な、なんか。今日の沢渡くん、強くない……?」
「どういう意味?」
「なんでもない!!」
授業開始のチャイムが鳴る。先生の声が教室に広がる。白須賀はまだ少し赤い顔のまま前を向いて、天雨は自分の席で静かに本を開いていたが、その頬がわずかに色づいているのが見えた。
こうして、僕たちの後期の学校生活が始まった。
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