花火
天雨の潤んだ瞳が、僕をまっすぐ見つめている。
ナイトプールの青い照明が水面で揺れて、その光が天雨の濡れた肌をやわらかく縁取っていた。膝枕したまま、天雨の指が僕の前髪を梳く。その指先の温度が、じわりと頭皮に染みてくる。
「沢渡くん。私ね、こんなに男の人を好きになったことないと思うの。もっと……沢渡くんが欲しい」
声が、いつもより低かった。感情を絞り出すように。ねだるように。天雨の指先が、僕の髪から頬へと移動して、そっと輪郭をなぞった。
まずい。これ以上は、さすがに理性が保てない。
「何してるのかなー? 沢渡くん」
覗き込んでくる顔があった。
白須賀だった。プールサイドにしゃがんで、顔だけを横から突き出すように僕を見ている。水着に着替えていて、濡れた髪が肩に張り付いている。鎖骨から肩口にかけての滑らかな線が、照明の光を受けてきらきらと光っていた。にやりと口角を上げたまま、まるで面白い見世物でも見つけたような目で僕を見ている。
今の状況を言葉で説明するなら——美少女に膝枕されたまま、トップアイドルに凝視されているという地獄絵図だ。
「白須賀さん。今日は私の番。ちゃんと順番守って」
天雨の声が、静かに、しかしはっきりと言った。指は僕の頬に触れたまま、離れない。
「守ってるよ? でも抜け駆けは良くないかなー?」
白須賀の声は穏やかなのに、その目には笑いの奥に別の温度があった。
二人の間に、見えない火花が散っているのが分かる。どちらも声を荒げない。笑顔のまま、静かに、それでいて一歩も引かない。その静けさがかえって、空気を圧縮させていた。
そのとき、施設のスタッフが近づいてくる。
「もうすぐで花火が上がりますよ。よろしければぜひご覧ください」
女性スタッフがそう告げて、そのまま立ち去っていく。
その隙を逃さず、僕は天雨の膝から頭を引き剥がして、半ば逃げるように男子更衣室へ向かった。楽しめるはずだったナイトプールを背に、足だけが前へ進んでいた。
※ ※ ※
着替えて更衣室を出ると、施設のロビーには男女それぞれの浴衣が並べられていた。
「おかえりなさいませ。浴衣はいかがですか? 色々な柄をご用意しておりますよ」
「じゃあ……これで」
適当に目に入った鼠色の浴衣を選んで、試着室で着替えた。
一人でロビーの外へ出ると、夜のガーデンには業界関係者らしき人間が集まっていた。ワインを片手に談笑している。やけに落ち着いた大人の空気で、さっきまでのナイトプールの喧騒とは別世界みたいだった。
ふと、視線を感じた。
「君だよね? あのショートドラマでウチの明日香ちゃんを助けてくれた子は」
声をかけてきたのは、人の良さそうな笑顔をした男性だった。
「まぁ、あれは状況が状況で……」
「気さくに話しかけてごめんよ」
男性は胸ポケットから名刺を取り出して差し出した。
「私は吉良明日香と西条静が所属する事務所の社長、海馬和也と言ってね。君にお礼がしたかったんだ。よければ一杯どうかい?」
「別にいいですけど……未成年なので」
「ハハ、知ってるよそれくらい」
海馬さんに促されるまま、空いたベンチに並んで座った。夜風が芝生の匂いを運んでくる。遠くでは波の音がしていた。
「君、結構モテるタイプじゃない?」
「え?」
単刀直入な言葉に、返事が出てこなかった。海馬さんは夜の空を見上げながら続ける。
「君さえよければ、芸能界に興味はないかい? うちで入れるのもアリだと思ってね」
思いがけない誘いだった。受け入れれば、白須賀や明日香たちと同じ業界に入ることになる。彼女たちがどれだけ過酷な場所で仕事をしているかを、もっと近くで知ることになる。
でも——それは、僕にとって別の話だ。
「お誘いは嬉しいですけど、あいにく芸能界には興味がなくて」
「そうかい。それも良い選択かもしれないね」
海馬さんは短く笑ってから、こちらへ顔を向けた。
「ところで、白須賀沙也加とはどんな仲なんだい? 今日、あれだけの美少女たちに囲まれていた君が、何か知っているのかと思ってね。白須賀ちゃんの事務所の社長から、最近の白須賀ちゃんが恋する乙女のように何かを追いかけている、という話を聞いていたもので」
白須賀との関係。友達と言い切れる関係では、もうとっくになくなっていた。デートをして、キスをして、それ以上を求められている。
「友達以上恋人未満、みたいな関係です」
海馬さんは「そうか」と、穏やかに微笑んだ。
「良いね、若いって。青春を堪能しているじゃないか」
「あれを青春と言えるかどうか……重い感情が交差してる感じで、僕にはよく分からないんですけど」
「それもそうだね。まぁ、話せてよかった。なんとなく、君がなぜあれほど人を惹きつけるのか、話しているうちに分かった気がするよ。無自覚な優しさが、そうさせているんだろうね」
何か返そうとした瞬間、海馬さんはもう立ち上がっていた。業界の人間の輪の中へ、自然に戻っていく。
一人残された僕は、テーブルに置かれたメロンジュースを手に取った。アイスが半分溶けて、グラスの縁に雫が伝っている。
「いた!」
明日香の声が夜のガーデンに響いた。
最悪だと思う暇もなく、白須賀と天雨まで一緒に現れる。少し遅れて玲音と柊先輩、静も来た。全員が浴衣に着替えていた。
明日香の浴衣は朱色と白の大柄な花模様で、天真爛漫な彼女の印象によく合っていた。静は藍色の落ち着いた柄で、白い肌との対比が息を呑むほど綺麗だった。白須賀は淡い桃色で、夜の照明を受けた横顔がやけに艶やかだった。天雨は深緑の地に金の細かい柄で、黒髪との相性が恐ろしいほど良い。玲音は紺と白の涼やかな柄で、柊先輩は紫紺の大人びたデザインだった。
六人が浴衣姿で揃うと、さっきのナイトプールとは種類の違う圧があった。同じ子たちのはずなのに、なぜこうも緩急がすごいのか。思わずため息をついた。
「静、抜け駆けだ」
明日香が頬を膨らませる。
「抜け駆けではないわ。あなたたちが遅いだけ」
静が涼しい顔で返す。
白須賀はそのやり取りを聞きながら、僕へ一歩近づいた。
「そろそろ花火、始まるよ」
穏やかな声だった。でも次の一言で、その温度が変わる。
「最後の場所、私の隣で見てね」
「……決定事項なの?」
「うん」
天雨がすぐに口を挟む。
「それはまだ決まってないでしょ」
「決めるよ」
「勝手に決めないで」
夏の夜、海沿いのリゾート施設、ナイトプールの余韻。本来ならロマンチックなものが全部、今の僕の周りでは静かに修羅場の材料へ変わっていく。
一番質が悪いのは、誰も怒鳴っていないことだ。全員が笑っている。笑っているのに、誰一人として譲る気がない。
花火の開始を告げるアナウンスが遠くから流れた。夜空の向こうで、最初の一発が弾ける音がした。光が広がり、遅れて音が届いてくる。
その瞬間、六人が一斉に僕を見た。
浴衣の袖が夜風に揺れている。それぞれの顔に花火の光が差して、また消える。
逃げ場なんて、もうどこにもなかった。
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