ナイトプール
「ちょっと! 場所変えない?」
明日香がそう提案した瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。白須賀の「私が先に夏もらうの、嫌だった?」という言葉が残したざわめきを、明日香の声が強引に押し流した形だった。
静も、天雨も、柊先輩も、玲音も、白須賀も――全員がどこか妙に納得したような顔をして、それぞれ僕に視線を一度当ててから、ナイトプールのある方角へ歩き出した。
※ ※ ※
リゾート施設は、フェス会場の喧騒とは別の意味で華やかだった。
夜のプールサイドは青い照明で縁取られ、水面には細かな光の粒が揺れている。遠くの小さなバーラウンジから、南国風の音楽が緩く流れていた。昼間は家族連れも多い場所らしいが、今の時間は大人びた空気のほうが強い。
しかも今日は関係者向けの一部開放らしく、一般客は少ない。それが逆にまずい気がした。人目が多ければ抑えられるものも、こういう半端な密度だと距離感が壊れやすい。
「じゃあ、一回着替えて二十分後に集合ね!」
明日香がそう言って女子更衣室のほうへ駆けていく。静、白須賀、天雨、柊先輩、玲音も続いた。
取り残された僕は、男子更衣室で一人、ロッカーの前に立っていた。
なんでこんなことになっているんだろう。さっきまで海辺のデッキで、キスだの何だのと危うい空気だったはずなのに、気づけばナイトプールである。
よくよく考えてみれば、僕の高校生活なんて、普通よりちょっと下くらいのはずだった。それが今では、波乱と修羅場を兼ね備えた、悪い意味での順風満帆な生活になっている。ただ軽い気持ちで毎日を過ごしていただけなのに。
海水パンツを履いてプールサイドへ出ると、夜風が肌に当たった。昼間の熱気とは打って変わって、夜の海に近い空気はどこか湿っていて涼しい。
「……なんで僕はこんな場所にいるんだ」
両手で顔を覆って、ため息をついた。
「お待たせ! 沢渡くん!」
声がして顔を上げた瞬間、視線が止まった。
明日香だった。花柄のビキニ。鮮やかな色が照明に映えて、明日香の日に焼けた肌をより艶やかに見せている。ナイトプールの青い光を受けるたびに、胸元の輪郭がやわらかく浮かび上がった。天真爛漫な笑顔そのままに、体つきだけがひどく大人だった。走り寄ってくるたびに、胸が揺れる。僕は反射的に視線を逸らした。
しかし明日香は僕の内心を知る由もなく、そのまま体ごとぶつかってくるように抱きついた。
柔らかい。それ以外の言葉が出てこない。丸みを帯びた豊かな胸が僕の胸板にしっかりと押し当たって、その感触と体温がダイレクトに伝わってくる。甘い香りが鼻先を満たした。
「うーん! やっぱり人肌が一番暖かいね〜」
「ちょっと、明日香。少し大胆すぎるんじゃないかしら」
背後から静かな声がした。
静だった。白を基調としたビキニ。明日香の華やかさとは正反対の、落ち着いた色合いが、静の白い肌と黒髪に静謐な艶を与えていた。プールの照明が水面で反射して、静の肌の上に細かな光の揺らぎを作っている。その光のせいで、鎖骨から胸元にかけての稜線がやけにはっきりと見えた。
静は明日香の腕をそっと引いて、僕から剥がした。
「沢渡くん。あなたも少しは気をつけた方がいいわよ」
柊先輩の声が続いた。視線を向けると、大人びたデザインのビキニに身を包んだ柊先輩がいた。学校で見る姿とは全く違う。落ち着いたシックな色合いが、先輩の持つ凛とした雰囲気と溶け合って、妖艶という言葉がそのまま形になったような存在感がある。
続いて、横腹を肘で軽く突かれた。
「沢渡くん。他の子見すぎ」
天雨だった。
紺色の花柄のビキニ。黒髪が肩に落ちていて、その先から一筋の汗が鎖骨を伝っている。胸元の豊かな丸みが、水着の布地に押し当てられてやわらかく形を変えていた。その一点から目が離せなくなって、僕は天雨の顔へ視線を上げた。
視線がぶつかった。
「見たいなら、もっと見ていていいよ」
天雨は少し顔を逸らしながら、消え入りそうな声でそう囁いた。耳の端が赤い。普段あれほど冷静な天雨が、今だけわずかに揺れていた。
理性の歯車が、軋む音を立て始めていた。
どこか別の方向へ視線を逃がそうとした。が、ラブコメの神様はどうやらそれも許さないらしい。
視線の先には、灰色のパーカを羽織った玲音がいた。パーカのジッパーが半分開いていて、その下に露出度の高い水着が覗いている。玲音がこれほど大胆な格好をするとは思っていなくて、思わず固唾を呑んだ。
「どう? 似合ってるでしょ?」
にやけ顔のまま、玲音が一歩、二歩と近づいてくる。パーカの合わせが揺れて、胸元の柔らかな稜線がちらりと覗く。僕は思わず一歩、二歩と後退した。
その瞬間、背中に腕が回った。
「捕まえた〜」
耳元で甘く囁かれた声は、どう聞いても白須賀だった。浴衣から着替えた白須賀の水着姿が、背後からぴったりと密着してくる。柔らかく丸みを帯びた胸が背中に押し当たり、その感触と白須賀の体温が、夏の夜気を通して肌に伝わってきた。前からは玲音の体が迫り、後ろからは白須賀が離さない。
何かが決壊した。
体の至る所が熱い。思考が白くなりかけた瞬間、僕は半ば強引に身を剥がして、一直線に個室トイレへ駆け込んだ。
ヤバい。ヤバいヤバいヤバい。
あんな状況、どんな男でも耐えられるわけがない。壁に背をつけて、ゆっくりと呼吸を整える。心臓がドラムみたいに鳴り続けていて、なかなか落ち着かない。五分ほど深呼吸を繰り返してから、ようやく外へ出た。
プールサイドでは、白須賀たちが思い思いに水の中で笑い声を上げていた。さっきまでの修羅場の気配はどこにもない。
よかった、と思うべきなのかどうか判断がつかないまま、僕は座れる場所を探してプールサイドを歩いた。
「沢渡くん、ここ空いてるよ」
声をかけてきたのは天雨だった。プールから少し離れたデッキチェアに腰かけて、文庫本を膝の上に開いている。濡れた髪が肩に張り付いていて、紺色のビキニの胸元からはまだ水の雫が一筋伝っていた。
「トイレはもう大丈夫なの?」
「う、うん……なんとか」
「ふーん」
天雨は文庫本から目を上げて、少しだけ顔を傾ける。
「もしかして、興奮しちゃった?」
隣に座った瞬間に耳元で囁かれて、体がビクッと跳ねた。
多分この時の僕の目は完全に泳いでいたと思う。でも天雨は、その様子を確認するように僕から視線を外さなかった。それから静かに文庫本を閉じて、おもむろに僕の頭に手を添えた。
ゆっくりと、しかし有無を言わさない動作で、天雨は自分の太ももへ僕の頭を引き寄せた。
柔らかかった。ビキニから直接伝わってくる、天雨の素肌の感触。体温がじわりと頬に染みてくる。
身動きが取れなかった。取れないというより、この状況をどう脱せばいいかの判断が追いつかなかった。
「私ね、最初は沢渡くんのことなんて好きじゃなかったの」
「……それは直球だな」
「でしょ? でも一緒にいるうちに、目が離せなくなってたの。気づいたら、負けたくないって思うくらい、強く好きになってた」
天雨の指が、僕の目にかかった前髪をゆっくりとどかした。その手つきが、丁寧すぎて怖い。
「ねえ、沢渡くんに好きな人はいないの?」
あの時の同じ質問だ。明日香に言われた時と似たようなシチュエーション。
僕は口を閉じた。
今の僕にそれを答える気持ちが整っていないからだ。そもそも、今までこんなに大勢の好意をまともに受け取ってきたことも、その先に自分がいる未来を具体的に想像できたことも、明日香との会話を経てもまだ一度もない。
「いないかな……」
「そっか」
「でも、いつかは答えを出さなきゃいけない。目を逸らし続けたら、きっと自分が嫌いになるから」
白須賀の顔が浮かんだ。天雨の顔が、柊先輩の顔が、玲音の顔が、静の顔が、明日香の顔が。それぞれが向けてきた言葉と、目の温度が。逃げることは簡単だ。でも逃げ続けることを、僕は多分選べない。
「じゃあ、私は沢渡くんが私を一番に好きになってくれるように頑張るから」
天雨がそう言いながら、膝枕したまま顔をゆっくりと近づけてきた。
プールの喧騒が遠くなる。白須賀たちの笑い声が、どこか遠い世界の音みたいに聞こえた。
天雨の唇が、僕の唇に静かに触れた。
柔らかくて、温かかった。海の香りと、天雨自身のわずかな体温が混ざって、一瞬だけ時間が止まったような気がした。
それはほんの数秒のことだったと思う。
でも、離れた後に天雨が見せた顔は、いつもの涼しい表情じゃなかった。耳まで赤くして、それでも視線だけは逸らさずに、静かに口を開いた。
「これが私の約束の印。沢渡くん」
夜風が吹いた。水面の光が揺れた。プールサイドの笑い声が、また近くなってきた。
僕はただ、天雨の黒い瞳を見つめたまま、何も言えなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




