忘れ物
葵たちと遊んだ日から二日後、僕は燦々と照りつける夏の太陽の下で、スマホを片手に一人立っていた。
朝六時に届いたメッセージが、まだ頭の中に残っている。
『今日、空けといて。私とデートお願い♪』
"空けといて"という言葉は、お願いというより命令に近かった。断る言葉を探しているうちに時間が過ぎて、気づけば僕は言われた通りの場所に立っていた。
「お待たせ、沢渡くん」
人波の中からすっと現れたのは、白須賀だった。マスクとサングラスと帽子で顔の大半を覆っているのに、それでも目を引く。立ち姿の重心の置き方、歩幅、腕の振り方まで――そういう細部が、普通の女子とは根本的に違う。
「変装すごいね……」
「こうでもしないとすぐバレちゃうから、仕方ないでしょ」
白須賀はそう言いながら、当然のように僕の腕へ寄り添ってきた。薄いサマーニット越しに、柔らかな感触が腕に伝わる。甘い香りが鼻先をかすめた。白須賀の体温が、夏の熱気とは種類の違う熱さで腕に馴染んでくる。
「ねぇ、沢渡くん。最近また色んな女の子と会ったでしょ」
「な、なぜそれを……」
「なぜって、分かるから」
白須賀は屈託のない笑顔のまま、僕の腕をぎゅっと握り直した。指が絡みつくように力を込めてくる。笑顔と、この手の力加減が、まるで別々の生き物みたいだと思った。
「まぁいいや。これから私が全部上書きしていけばいい話だし」
そう言いながら、白須賀はポケットからスマホを取り出して、マスクとサングラスを少しだけずらした。そのまま僕に顔を寄せてきて、ツーショットを撮る。マスクの下から覗いた横顔が、やはり際立っていた。
「うん、良い感じ♪ 今日はとことん私が上書きしていくからね、沢渡くん」
最近の白須賀はひどく多忙そうだった。SNSを開けば一目で分かる。テレビ番組の出演、記者会見、各媒体からの取材対応。東京ドームを単独で埋めた後の"白須賀沙也加"は、もはや一般的な意味でのアイドルという枠を超えていた。それなのに今日、こうして僕の隣で腕を組んで歩いている。
その事実がどこか現実離れしていて、同時に――白須賀がこんなに機嫌よさそうな顔をしているのを見て、胸の奥でほんの少しだけ安堵している自分がいた。
「それじゃ行こっか!」
白須賀は僕の手をしっかりと握って、巨大な商業施設へ引き込んだ。人で溢れる通路を歩きながら、彼女は一切手を離さなかった。迷子を引率しているのか、引率されているのか、どちらか分からない。
※ ※ ※
最初に向かったのは服屋だった。白須賀が気に入った服を試着して、僕がいいか悪いかを判断するという謎の役回りが僕に与えられた。
試着室のカーテンの向こうからかすかな衣擦れの音が聞こえてくる。何が起きているかを想像しないように意識しながら、僕は椅子に腰かけて天井を見上げた。
「どう? 似合ってる?」
カーテンが開いて、白須賀が出てきた。
黒を基調にした、大人びたシルエットの服だった。いつものキラキラとした清楚な印象とは正反対の、落ち着いた艶のある装いで――僕は一瞬、息を止めた。
「……似合ってる。可愛いよ、白須賀さん」
「あ、ありがとう……」
白須賀が頬を人差し指でかいた。サングラスをずらした隙間から見えた耳が、わずかに赤い。普段の完璧な笑顔とは違う、少しだけ崩れた顔が、どういうわけか胸に刺さった。
「どんどん着替えていくね!」
それからは白須賀が次々と試着を繰り返した。カジュアルなもの、ガーリーなもの、シックなもの。出てくるたびに印象が変わる。そのたびに僕は率直な感想を言って、白須賀はそれを聞くたびに少しずつ表情を柔らかくしていった。
最終的に、白須賀は試着した服を全部腕に抱えて出てきた。
「全部買おうかな!」
「え?」
「だって沢渡くん、私が着た服全部に似合ってるとか可愛いって言ってくれたじゃん」
「そ、それはまあ確かに」
「それに――私は皆から可愛いと思われる私より、沢渡くんだけに可愛いと思われる私でいたいから」
欲張りな言葉だと思った。けれど、欲張りと笑い飛ばせないくらい、その言葉が真剣な顔で吐かれていた。僕はどう返せばいいか分からないまま、ただ黙っていた。
「沢渡くん、まだ付き合ってくれるよね?」
「付き合うよ」
迷いなく答えていた。
※ ※ ※
次に向かったのは、水着売り場だった。
「今度リゾート施設でイベントがあるの。露出少なめの水着を買おうかなって」
白須賀はそう言いながら、サングラス越しに棚を眺めて歩く。いつもより少しだけ目が生き生きとしていた。
「沢渡くん、この水着どう思う?」
振り返った白須賀が手に持っていたのは、どこからどう見ても際どい水着だった。布の面積が最低限しかない。僕の思考がすっと止まった。
「えっと……それ、流石に露出が多くないですか。イベントで使うんでしょ、それ」
「違うよ。沢渡くんにだけ見せるやつ」
思考が完全に停止した。
白須賀はその際どい水着をひらひらと揺らしながら、僕の目を覗き込むように顔を近づけてくる。マスク越しでも伝わってくる、近すぎる距離。甘い香水がまともに届いてきて、僕は視線を逸らした。
「この水着なら、私の体の端から端までよく見えるから。沢渡くんにはもっとちゃんと私を見ていてほしいの」
視線を逸らした僕の体を、白須賀がそのまま後ろから抱きしめた。
水着を持った両手が、僕の腹の前でそっと組まれる。背中に伝わる柔らかな感触と体温が、夏の熱気と混ざって判断力を鈍らせていく。
「私、沢渡くんのことを愛してる。これは嘘じゃない。本当の私の気持ちなの。この体も、私の心も――沢渡くんになら、全部めちゃくちゃにされてもいいって思ってる」
「……白須賀さん」
「すぐに答えが出せないのは知ってる。でも――ここだけは、ちゃんと分かってほしい」
白須賀は僕の手を取った。そのまま、自分の胸へ静かに押し当てる。薄いニット越しに伝わってくる鼓動は、早かった。驚くくらい早く、乱れていた。
白須賀はただ微笑んでいた。完璧な笑顔ではなく、何かを全部さらけ出したような、崩れた笑顔で。
その鼓動が手のひらから伝わってくる間、僕は何も言えなかった。
「あ、あの……」
「ごめん、ちょっとびっくりさせちゃったね!」
白須賀はいたずらっぽく笑うと、際どい水着を棚へ戻して、露出の控えめな水着を手に取ってレジへ向かった。その背中を呆然と見送りながら、僕はまだ手のひらに残っている温もりを、うまく処理できないでいた。
※ ※ ※
商業施設を出ると、空はすっかり夜になっていた。
入口の前に、黒塗りの車が一台停まっている。事務所の迎えだろう。白須賀がそちらへ視線を向けてから、僕の方へ顔を戻した。
「それじゃ、ここでお別れだね」
「そうだね」
「あ、そうだ。忘れ物があった」
白須賀がすっと顔を近づけてきた。
マスクを引き下げた唇が、僕の唇に触れた。東京ドームライブの夜と同じ温度が、一瞬だけ重なって、離れる。
夜風が頬を撫でた。
白須賀はマスクを戻して、魅惑的な笑みを浮かべながら口を開いた。
「上書き完了。……私ね、いつか沢渡くんとちゃんとした口付けをしてみたいな」
「……それはどういう」
「それじゃ、行くね」
白須賀は手を振りながら黒塗りの車へ歩いていった。ドアが閉まる。車が滑るように走り去っていく。その尾灯が見えなくなってから、僕はようやく息をついた。
しばらくそのまま立ち尽くしていると、スマホが震えた。
白須賀からのメッセージだった。
『明後日にイベントがあるから、絶対来てね!』
その下に、撮影場所の住所が添えられていた。
画面を拡大すると、そこはリゾート施設のような場所だった。
どうやら、まだまだ僕の夏休みは続くらしい。
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