日焼け止めクリーム
明日香と静の視線が、同時に僕へ集中する。
一方の姉はというと、にやけ顔のまま僕を見つめて、楽しくて仕方ないとでも言いたそうな顔をしていた。
「へぇ、こんな可愛い子達と友達なの。お姉ちゃんにわざわざ隠してたんだ〜」
姉はそう言いながら、明日香と静へ面白そうに歩み寄っていく。二人はまだ状況を飲み込みきれていない様子だった。僕に姉がいることなど、予想していなかったのだろう。そうなるのも無理はない。
「えぇ!? 沢渡くんにお姉ちゃんがいたんですか!?」
明日香が遅れて大きな反応を示す。その金色の髪が、驚きで弾んだ。
静はといえば、眦をわずかに開いたまま、汗を一筋流すように静止していた。そして、ゆっくりと口を開く。
「裕二くん……本当に、この人があなたのお姉さんなの? あまり似ていると思えないのだけれど」
その声には疑惑がにじんでいたが、どこか安堵のようなものも混じっていた気がした。僕の腕に絡んでいた存在が「姉」であると知って、胸の中の何かが解けたのかもしれない。
「ねぇねぇ! 二人ともあのショートドラマで裕二と共演してた子だよね?! 連絡先とかは交換してるのー?」
優花が興奮気味に畳み掛ける。
「私、沢渡くんの連絡先まだ知らないんですよね! できれば教えてもらえますか!?」
明日香がはっちゃけた顔でそう言うと、静がその横でさらりと言葉を重ねた。
「差し支えなければ……裕二くんの連絡先を、教えていただけますか」
静の声は穏やかで、けれど有無を言わさない静けさがあった。僕の連絡先を「姉に」求めているのが、なんともいえず重い。
内心でため息をついたまま、僕はそっと後退しようとした。足が砂を踏む。あと数歩でこの輪から抜け出せる――そう思った瞬間、肩に手が乗った。
「どこに行くのかな? 裕二。お姉ちゃん、まだ馴れ初め話聞いてないよー?」
「馴れ初めって……そんな仲じゃ――」
言い終わる前に、明日香が駆け寄ってきた。
オレンジのビキニから覗く日焼けしていない白い素肌が、陽光の下で滑らかに輝いている。彼女は迷いなく僕の腕へ身を寄せてきて、その胸の柔らかな感触が腕を包んだ。甘い日焼け止めの香りが鼻先をかすめる。
静もまた、僕の反対側へ無言でするりと寄り添ってきた。触れるか触れないかの距離で寄り添うその仕草が、かえって意識を引き寄せる。白い肌に黒いビキニの対比が目に刺さって、僕は視線を宙へ逃がした。
なんなんだこの地獄は。
固まったまま動けずにいると、いつの間にか「馴れ初め話を聞かせてもらう」という名の完全な尋問が始まっていた。
※ ※ ※
話がある程度落ち着いた頃を見計らって、僕はトイレを口実にその場を抜け出した。
個室の中で一人になると、ようやく頭の中が静かになった。なぜ神様はこうも僕に無理難題のラブコメ展開を押し付けてくるのだろう。たまたま家族旅行で来た海に、明日香と静。ただでさえ姉に会わせたくない人間たちだというのに。
とにかく、母さんと父さんが戻ってくるまでに、あの二人と姉を引き剥がすことだけを考えろ。それだけだ。
「お! いたいた!」
トイレを終えて出た瞬間、一番見つけて欲しくなかった人間に速攻で見つかった。
明日香が、砂浜の照り返しを背に立っていた。風に揺れる金髪と、日を受けてきらめく肌。屈託ない笑みを浮かべているくせに、その目だけが妙に真剣な光を持っていた。
「探したんだよ? どこ行ってたの?」
「……御手洗に」
「そっか」
明日香は一歩、僕へ近づく。距離が縮まった分だけ、シャンプーの甘い香りが濃くなる。彼女は目を細めて、僕の耳元へそっと顔を寄せた。
「逃げても、ダメだからね?」
低く、熱を帯びた声だった。
僕は言葉を失った。笑顔でそれを言う明日香が、今この瞬間だけ、底の見えない何かを抱えているように見えた。そうか。最初から、逃げ場などなかったのだ。
次の瞬間、明日香は僕の手を掴んで走り出した。引かれるまま足が動いて、視界に飛び込んできたのは、大きなパラソルと綺麗に敷かれたレジャーシートだった。
「ねね、私さ、日焼け止め塗ってないんだよね」
「……はぁ」
「塗ってよ!!」
「は?」
本気で言っているのかと思ったが、明日香の顔を見れば一目瞭然だった。真剣な顔で、日焼け止めのボトルをこちらへ差し出している。
「ここ座って。私、寝そべるから」
そう言いながら、明日香はレジャーシートの上にするりと横たわった。背中を晒すように。
日焼け止めを手に持ったまま固まっていると、「ほら、早く!」と急かされた。
男にも女にも日焼け止めを塗った経験など、もちろんない。
仕方ない。塗らなければ時間は進まない。
「じゃ、じゃあ……」
手のひらへクリームを出して、両手で温めるように伸ばす。そして、静かに明日香の背中へ手を乗せた。
「あっ……」
明日香の唇から、小さな声が零れた。
息を吸いかけて、止めた。気のせいにしろ。そういうことにしなければ、僕の理性の歯車が今すぐ狂い出す。
「ご、ごめん。変な声出ちゃった……」
明日香が少し俯いたまま、消え入りそうな声でそう言う。
返事などできるわけがなかった。
胸の奥から込み上げてくる熱を押し込んで、無心で手を動かす。クリームが白い素肌に馴染んでいく。指先が背骨の稜線をなぞるたびに、明日香の呼吸がかすかに乱れた。その微かな変化が手のひらから伝わってきて、僕は目線を明日香の背中から外した。
「沢渡くんはさ、好きな人とかいないの?」
「好きな人……か」
唐突な質問に空を見上げるように、その言葉を頭の中で転がした。
好きな人。それはきっと、僕にはもうずいぶん縁遠い話になっていた。初恋とか、恋心とか、そういうものが全くなかったわけじゃない。何度かはあった。でもいつからか、僕はそれを追いかけることに疲れて――ゲームや別のものに気持ちを置き換えることを覚えてしまった。
「どうかな……正直、そういうのには疲れたから」
「それはどうして?」
明日香の声が、いつもより少し低かった。背中を向けたまま、でもちゃんと聞いている。
「"恋愛"って、夢中になっている時はどこまでも楽しくてむず痒くて最高なのに、それが儚く散ったら全部黒歴史になる。あの時夢中になってた自分が嫌いになって、なんであんな髪型してたんだろうとか、なんであんなこと言ったんだろうって、自分が馬鹿らしく思えてくる。……それに、今の僕には"恋愛"をする資格がない」
口に出してから、それが正直な言葉だと分かった。
恋愛から逃げて、他人への興味を薄れさせて、今自分に向けられているものにも背を向け続けている。それが良くないことは分かっている。でも――受け取った先で、ちゃんとその人を幸せにできる自信が、どうしても持てない。
「……"資格"ね」
明日香の声が、静かに返ってきた。
「それって本当に"必要"なの?」
背中越しに、少し考えるような間があった。潮の音が、沈黙を埋める。
「恋愛ってさ、結局は自分がどれだけ素敵な人なのかを自己主張して、それを良いって思った人が素直に受け取ればカップルが成立する。ただ、それだけの話じゃない?」
「……そうかな」
「そうだよ」
明日香の声に、いつもの天真爛漫さとは違う、落ち着いた重さがあった。
「他の子は知らないけど――沢渡くんが私からの好意から目を逸らしてるのは、分かってる。私の気持ちがどれだけ重くても、どれだけしつこいって思われても、沢渡くんが最終的に私を好きになってくれたら、その時点で私は幸せなの。だからさ、"自分に資格がないから恋愛しない"とか言わないでよ。資格なんて、誰にも最初からないんだから。だから――みんなの気持ちから、目を背けないでほしいな」
言葉を失った。
資格は元々ない。そうか、そういう話なのか。受け取る側にも、渡す側にも、最初から資格なんてものは存在しない。それでも、みんな向き合っている。
もしこれから、彼女たちの気持ちを正面から受け止めたら――僕はちゃんと前へ進めるだろうか。その問いに、まだ答えは出なかった。
「ねえ、沢渡くん」
「……なに?」
「水着の下も、塗ってほしいな」
しばらく、返事ができなかった。
「……マジですか」
「マジです」
言葉を失うとは、きっとこういう状態を指すのだろう。ただでさえ心臓が異常な速度で動いているのに、これ以上のことをしろというのか。
「水着のホック、簡単に外せると思うから。お願い」
「……わ、分かった」
震える指を、できる限り意志の力で制御した。明日香の背中のホックに指先をかける。わずかな抵抗の後、それが外れた。
そこからはほとんど、無心だった。
何かを考えた瞬間に理性が決壊すると分かっていたから、ただ手を動かすことだけに集中した。クリームが肌に溶けていく感触と、潮風だけが、かろうじて僕の意識を現実に繋ぎとめていた。
塗り終えた後、露わになった明日香の背中を前に、僕はゆっくりとため息をついた。ホックを戻そうと指をかけた、その瞬間。
「明日香? あなた、何をしているのかしら」
「あれ……裕二、アンタ……」
終わった。
背後から二つの声が重なった。僕は静かに死を覚悟しながら振り返る。
姉と静が、並んでこちらを凝視していた。
静の表情は動いていなかった。いつもと同じ無表情に近い顔。けれどその黒い瞳が、僕の指先――まだ明日香の水着のホックにかかったままの指先をゆっくりと見下ろして、それから僕の顔へ戻ってきた。
何も言わない。ただ、見ている。その静けさが、どんな言葉よりも重かった。
「遅かったじゃーん、二人とも」
明日香だけが、何食わぬ顔でそう言った。
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