次は逃さないから
夏休み初日の朝、僕のスマホは、目覚ましより先に鳴っていた。
しかも一件じゃない。
振動が止まったと思ったら、また鳴る。止まったと思ったら、また。寝ぼけた頭のまま画面を見た瞬間、僕は布団の中でしばらく固まった。
天雨美鈴。
柊綾乃先輩。
白須賀沙也加。
嫌な予感しかしない並びだった。
最初に開いたのは天雨からのメッセージだ。
『約束どおり、今日の午前は私の時間ね』
『九時、駅前の図書館』
次に柊先輩。
『十時半、生徒会室』
『オープンキャンパス準備。逃げないこと』
最後に白須賀。
『夕方、迎え行くね』
『夏休みの最初、ちゃんと欲しいから』
そこで、僕は顔を覆った。
夏休み初日から、もう僕の予定が僕のものじゃない。
しかも、その三人が全員、遠慮とか譲り合いとか、そういう一般的な言葉を知らない顔をしているのがひどかった。
※ ※ ※
図書館の冷房は強すぎるくらいだった。
夏休み初日の午前だからか、学生の姿もそこそこ多い。勉強する人、新聞を読む人、受験対策コーナーに陣取る人。その中で、天雨はいつも通り静かな顔で、窓際の一番奥の席を取っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
僕が座ると、天雨は小さくうなずく。
白いブラウスに薄いカーディガン。制服じゃないだけで、普段より少し大人びて見えるのが厄介だった。もともと天雨は派手じゃないのに目を引く。今日はその“静かな綺麗さ”が、余計に際立っている。
「ちゃんと来たね」
「約束したし」
「うん」
それだけで、天雨は少しだけ満足したみたいに目を細めた。
テーブルの上には、彼女が持ってきた問題集と、僕の前にそっと置かれるペットボトルの紅茶。
ラベルのない、よく冷えたやつだった。
「これ」
「……ありがとう」
「お礼言うの、えらいね」
「そこ褒める?」
そう返すと、天雨はほんの少しだけ笑った。
最初の三十分くらいは、本当にただの勉強だった。
天雨が問題集を解き、僕が分からないところを一緒に見る。ノートの上でシャーペンの音だけが静かに響いて、たまにページをめくる音が混じる。
こういう時間だけ切り取れば、普通の夏休みの光景に見えるかもしれない。
でも、実際には全然普通じゃない。
十分もすれば、天雨の距離感が少しずつおかしくなってくるからだ。
「ここ、これで合ってる?」
そう言って差し出されるノートが、やけに近い。
肩が触れそうな位置。髪がほのかに揺れて、柔らかい香りがする。
「……多分、途中式一個抜けてる」
「どこ」
「ここ」
指で示そうとした瞬間、天雨の指先が僕の手へ重なった。
一瞬だけ。
でも、その一瞬が変に長く感じる。
「……ごめん」
僕が言うと、天雨は首を振った。
「謝らなくていいよ」
そのまま、彼女は僕の指先を見下ろす。
静かな目なのに、その視線のほうが妙に熱い。
「沢渡くん、こういうのに慣れてないよね」
「何に」
「触れられるの」
そこで僕は、ようやく自分の手が少しだけこわばっていたことに気づいた。
天雨はゆっくりと指を離す。
離すのに、その余韻だけを残していくから質が悪い。
「夏休み、長いから」
彼女は前を向いたまま言う。
「少しずつ慣らそうかなって思ってる」
「何を」
「私に」
小さな声だった。
でも、そこでふざけていないことだけは、すぐに分かる。
喉が変に乾く。
僕が返事を探していると、天雨はページを閉じて、今度はもっと静かに続けた。
「昨日、ずっと考えてたんだ」
「何を」
「東京ドームのあとで、白須賀さん、絶対もっと遠慮なくなるなって」
その言い方に、白須賀の顔が浮かぶ。
成功した直後の、妙に静かな笑顔。
そして、私のものにする、とまで言い切ったあの声音。
「だから、私も待ってるだけじゃだめだなって」
天雨はそこでようやく、ちゃんと僕を見る。
「沢渡くん」
「……なに」
「今ここで、キスしてって言ったら困る?」
息が止まりかけた。
図書館だ。
周りには人もいる。静かで、冷房が効いていて、ただの午前の学習室のはずなのに、その一言だけで空気の質が全部変わる。
「……美鈴さん」
「うん」
「かなり困る」
「そっか」
天雨は少しだけ目を伏せた。
でも、傷ついた顔はしない。むしろ、最初からそれも織り込み済みだったみたいに淡々としている。
「じゃあ今日はやめとく」
「今日は、って何」
「そのうち慣れたら」
それが冗談じゃないから困る。
天雨は何事もなかったみたいに、僕の前に置いた紅茶の蓋を開ける。
それから、飲み口のところを指先で少しだけ拭って、僕へ差し出した。
「のど乾いてるでしょ」
それはもう、ほとんどわざとだった。
「……自分のあるから、いいよ」
「あるよ。でも、これは沢渡くんの」
「今自分で開けたじゃん」
「うん」
うん、じゃない。
僕が固まっていると、天雨は静かに笑った。
「そういう顔するの、ちょっと好き」
その言い方が、いつもの天雨より少しだけ甘かった。
静かなぶん、余計に逃げ場がない。
結局、僕はその紅茶を受け取ってしまった。
受け取った瞬間、天雨の唇がほんの少しだけ緩む。たったそれだけなのに、何かひどく面倒な一線を越えた気がした。
※ ※ ※
十時半。
僕は予定どおり、生徒会室にいた。
……いや、いるしかなかった。
天雨との時間を切り上げて学校へ来る道のりで、すでに精神力の半分くらいを使っていた気がする。
生徒会室は冷房が効きすぎていて、外の熱気と別世界だった。
書類の匂い、コピー用紙の白さ、パソコンのファンの音。夏休みに入った学校とは思えないくらい、ここだけは平日みたいな顔をしている。
「遅刻はしていないわね」
柊先輩が、ノートパソコンの画面から目を上げずに言う。
「一応」
「ならいいわ」
相変わらずだ。
でも、私服に近い夏服姿のせいか、いつもより少しだけ雰囲気が違う。白いブラウスの袖を軽く折り、髪もいつもより少しラフにまとめている。そのせいで、事務的な空気と妙な色気が同居していた。
僕が椅子へ座ると、柊先輩はクリアファイルを一冊差し出した。
「これ、夏休み中のオープンキャンパス補助の詳細」
「本当に僕の予定、押さえたんですね」
「ええ。かなり合理的でしょう」
「合理的、の使い方間違ってません?」
「いいえ。白須賀さんがライブ成功直後で勢いづいている今、あなたを完全に野放しにするほうが危険よ」
そんなことを、涼しい顔で言う。
この人の怖いところは、執着をちゃんと“管理”の形へ変換して話してくるところだ。感情で押されるより、逃げ道が少ない。
しばらくは本当に作業だった。
名簿整理、配布資料の封入、校内誘導のルート確認。生徒会の仕事としては至って真っ当だ。だからこそ、途中までは僕も普通に処理できていた。
でも、作業の半ばで柊先輩が僕の前へ回り込んだ瞬間、それまでの“普通”が崩れた。
「動かないで」
「え?」
突然、ネクタイに触れられる。
……いや、今日は私服だからネクタイじゃない。代わりに、シャツの第一ボタンのあたりへ、細い指先が滑り込んだ。
「糸くず」
そう言いながら、先輩は僕の襟元を整える。
顔が近い。
この人は普段、必要以上に距離を詰めないくせに、こういう“正当な理由”があると急に容赦がなくなる。
「……取れたわ」
「ありがとうございます」
「素直ね」
柊先輩は少しだけ笑った。
その笑い方が、学校の廊下ですれ違う時よりずっとやわらかい。
「沢渡くん」
「何ですか」
「首筋、少し赤い」
ぎくりとする。
朝の天雨の指先。
図書館での近すぎる距離。
それを思い出すより先に、柊先輩は一歩だけ距離を詰めた。
「誰かに触られた?」
「……」
「答えなくていいわ。でも、そういう痕跡を残されるのは管理上困るの」
その“管理上”の言い方が、ひどくこの人らしい。
なのに、言っている内容は全然穏当じゃない。
柊先輩の指先が、今度は本当に首筋へ触れる。
冷たい。冷房で冷えた指なのか、それとも彼女自身の温度なのか分からない。その冷たさが逆に熱く感じるから困る。
「……先輩」
「何かしら」
「それ、必要な確認ですか」
「ええ」
即答。
でも、その目だけは少しだけ意地が悪い。
「夏休みは長いの。誰がどれだけあなたに触れて、どれだけ近づいているのか、把握しておかないと困るでしょう」
つまり、監視だ。
でも本人は絶対にその言葉を使わない。
「私、待てるのよ」
柊先輩は静かに言う。
「待てる人間のほうが、結局一番面倒だと思わない?」
それはもう、自分で言っているようなものだった。
僕が何も返せないでいると、先輩はようやく指を離す。
離す瞬間だけ、爪先が肌をかすめる。そのわずかな感触のほうが、むしろ長く残った。
「午後は解放してあげる」
何様なんだろう、この人は。
「でも、夏休み中の前半三日は、こちらで押さえているから」
「しれっと確定事項にしないでください」
「もう決裁済みよ」
逃げられない。
※ ※ ※
夕方。
指定された場所へ行くと、白須賀の送迎車は、駅前の喧騒から少し外れた場所に停まっていた。
乗り込んだ瞬間、冷房の風と一緒に、甘い香りがした。
香水というより、ライブ後の雑誌撮影でついたボディミストみたいな、軽いのにやけに残る匂い。
「来てくれた」
白須賀が後部座席の奥で笑う。
今日は私服だった。白いノースリーブの上に薄いカーディガンを羽織っていて、膝丈のスカートから伸びる足が、妙に夏っぽい。東京ドームのステージ衣装とは全然違うのに、それでも人を目で追わせる強さだけは消えていなかった。
「呼ばれたから」
「うん。呼んだもん」
そう言って、白須賀は当然みたいに僕の隣へ身体を寄せる。
広い車内なのに、わざわざその距離で座る必要はないはずだ。ないのに、彼女はもう“必要がないことをする理由”を隠そうとしない。
「今日、誰と会ってた?」
開口一番、それだった。
「……何その質問」
「そのままの意味」
白須賀は笑顔のままだ。
でも、視線だけが妙に真っ直ぐで逃げにくい。
「副会長さん?」
「なんで」
「なんとなく、沢渡くんから紙の匂いするから」
怖い。
白須賀はそこで、僕の袖をつまむ。
次の瞬間には、僕の手首を持ち上げて、手の甲へ鼻先を少しだけ寄せた。
「あと、これは美鈴ちゃんかな」
息が止まる。
「……何してるの」
「確認」
白須賀は本当に平然としていた。
そのまま、僕の手の甲へ唇を軽く押し当てる。
キスというほど長くない。
でも、口づけと呼ぶには十分すぎる柔らかさだった。
「上書き」
そう言って笑う。
やめてくれ。
そういう言い方をされると、東京ドームの控室でされたキスまで一気に思い出してしまう。
「白須賀さん」
「うん」
「かなり面倒になってない?」
「なってるよ」
自覚があった。しかも堂々と。
「だって、成功したら欲が出るもん」
白須賀は僕の手を離さない。
「東京ドームで分かったんだよね。私、もう“ちょっと特別”じゃ足りない。沢渡くんの中で、一番深くて、一番先に思い出す存在になりたい」
その言葉が甘い声で落ちてくるのに、内容だけはまったく甘くない。
「だから、他の子の気配ついてると嫌」
白須賀はそう言って、今度は僕の首元へ視線を上げた。
「ねえ、キスしたい」
「……は?」
「ここじゃなくてもいいけど」
さらっととんでもないことを言う。
「でも今日は、したい気分」
車の中だ。
外では人も通っている。運転席との間には仕切りがあるとはいえ、環境としては全然そういう場所じゃない。なのに白須賀の声のせいで、空気だけが先に密閉されていくみたいだった。
僕が返事を詰まらせていると、白須賀は少しだけ口元を緩めた。
「その顔、好き」
「やめて」
「やめない」
短く言い切ってから、彼女は僕の肩へ額を寄せる。
柔らかい髪が首筋にかかる。
距離が近い。体温がある。匂いがする。東京ドームを成功させた国民的アイドルが、こんなふうにただの一人の男へ甘くまとわりついてくること自体が、現実感を壊してくる。
「ねえ、沢渡くん」
「……なに」
「夏休み、長いよね」
「そうだね」
「だったら、いっぱい覚えさせられるね」
そう囁く声が、ひどくやわらかい。
「私のこと。私の匂い。私に触られた時の顔。そういうの、ちゃんと増やしていける」
その一言一言が、官能的というより、静かな執着の積み上げだった。
白須賀は一気に奪うんじゃない。時間ごと、感覚ごと、少しずつ上書きしていくつもりなのだろう。それが余計に怖い。
結局、その日も本当に唇へは来なかった。
でも、その代わりみたいに、車を降りる直前、白須賀は僕の耳元へ顔を寄せて、低い声で言った。
「次は逃がさないから」
その一言だけで、十分すぎるくらい残った。
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