始まる夏休み
終業式の日は、朝から暑かった。
まだ本格的な夏ではないはずなのに、校門をくぐった時点で、空気の温度が明らかに違う。アスファルトの照り返しも、蝉の鳴きかけみたいな音も、全部が「もう逃げ場はない」と言ってくるみたいで嫌だった。
教室へ入ると、案の定、白須賀沙也加はまだ来ていなかった。
ここ数日はそうだ。
ライブ後の取材、特番、雑誌、配信、ラジオ。ニュースで見るだけでも、白須賀の予定は明らかにおかしい密度になっていた。東京ドームを成功させた人間が、数日で普通の高校生活へ綺麗に戻れるわけがない。
それでも今日は終業式だからか、クラスの空気がどこか浮き足立っていた。
「白須賀さん、来るかな」
「終業式だけ顔出すんじゃない?」
「ていうか夏休み入ったら、もうほとんど会えなくない?」
そんな会話が、あちこちから聞こえる。
僕はそれを聞き流すふりをしながら、自分の席へ座った。
隣の椅子は空いたまま。机の上もきれいに片づいていて、なのにそこだけ妙に存在感がある。
……慣れたくないな、と、思う。
別に、白須賀が学校へ来ないこと自体は当然だ。
でも、当然だから平気かといえば、そうでもない。最近の僕は、自分で思っているよりずっと、この席の有無に引っ張られている気がした。
ホームルームが始まる直前になって、ようやく教室の扉が開く。
「おはよー」
たったそれだけで、空気が変わった。
白須賀は、夏の光をそのまま連れてきたみたいな顔で教室へ入ってくる。
制服姿なのに、もう完全に“テレビの向こうの人”みたいに見える瞬間がある。それでもやっぱり、こうして僕の隣へ歩いてくると、妙に現実味もあって困る。
「おはよう」
前を向いたまま小さくそう言うと、白須賀は席へ座りながら、机の下で軽く僕の膝に触れた。
一瞬だけ。
でも、その一瞬が、教室のざわめきよりずっと強く意識へ刺さる。
「今日はちゃんと来たよ」
「見れば分かる」
「ふふっ。そうじゃなくて」
白須賀は前を向いたまま、ほんの少しだけ声を落とした。
「終業式、沢渡くんの隣で受けたかったの」
そんなことを、朝の教室で、平然と言わないでほしい。
けれど当の本人は、それで満足したみたいに少しだけ笑う。
ホームルームで担任が入ってきた頃には、もう何でもない顔に戻っていた。
※ ※ ※
終業式そのものは、驚くほどあっさり終わった。
校長先生の長い話。夏休み中の注意。進路指導の諸連絡。
毎年同じような流れのはずなのに、今年だけは、どこか“その先に何かが待っている”感じが濃かった。
教室へ戻ると、担任がプリントを配り始める。
課題一覧、成績表、夏休み中の連絡事項。そんな、普通の高校生ならそれなりに面倒で済むはずの紙束が、今日の僕には妙に軽く見えた。
その代わりに、もっと面倒なものが、別のところから一気に押し寄せてきた。
「沢渡くん」
最初に来たのは、白須賀だった。
クラスメイトたちに囲まれる前の、ほんの短い隙を狙って、彼女は僕の机の端へ一枚の紙を滑らせる。
折りたたまれた、小さなメモだ。
「後で見て」
「今じゃダメなの」
「今見ると顔に出るから」
それだけ言って、白須賀はすぐに別の子たちへ囲まれていった。
逃げ方がうますぎる。
次に来たのは、天雨美鈴だった。
教室が少しざわつく中、彼女は僕の机の横へ来て、当たり前みたいに小さな封筒を置く。
「何これ」
「夏休みの予定」
「なんで僕の?」
「私の」
静かな声だった。
でも、その内容は十分に重い。
「図書館行く日と、塾の夏期講習ない日と、家の手伝いで動けない日、全部書いてあるから」
「なんで?」
「合わせたいから」
即答だった。
「沢渡くん、放っておくと勝手に誰かに取られそうだし」
その“誰か”が誰を指しているのか、わざわざ聞くまでもなかった。
天雨は少しだけ僕のネクタイの結び目を直す。
指先が喉元へ触れて、一瞬だけ息が止まる。
柔らかい。細い。なのに、その手つきのほうが、下手な言葉よりずっと独占欲が強かった。
「夏休み、逃げないでね」
囁くみたいな声だった。
でも内容だけは全然やさしくない。
天雨が離れたあと、今度は白須賀がこっちを見ているのに気づく。
あからさまに不機嫌、ではない。ないけれど、笑顔のまま目だけが少し冷えていた。
そして、その流れに被せるみたいに、教室の後ろから最後に来たのは柊先輩だった。
「はい、これ」
差し出されたのは、生徒会の封筒だった。
「また何かですか」
「また何かよ」
柊先輩は平然としている。
「夏休み中のオープンキャンパス補助、あなたの名前で何日か押さえておいたから」
「勝手に!?」
「勝手じゃないわ。必要な管理よ」
必要な管理、の意味が分からない。
「学校側から変な依頼が行かないように、先に予定を埋めたの。感謝してほしいくらいね」
理屈としては正しい。
でも、その正しさが一番逃げづらい。
「副会長さん、それずるくない?」
いつの間にか白須賀が戻ってきていて、にこやかに口を挟んだ。
柊先輩は少しも動じない。
「あなたに言われたくないわね」
「私、ちゃんと本人にお願いしてるもん」
「私は合理的に確保しているだけよ」
言い方は違う。
やっていることは、大差ない気がする。
しかも、そのやり取りを天雨が静かに見ているのだから、本当にろくでもなかった。
終業式の日の教室で、普通なら「夏休みどこ行く?」とか「宿題だるい」とかで終わるはずの時間が、僕の周囲だけ妙に濃く、妙に重く、妙に逃げ場がなくなっている。
これが、夏休みの入口らしい。
※ ※ ※
結局、白須賀から渡されたメモを開いたのは、下校の途中だった。
校舎を出て、人通りの少ない裏門側まで来てから、ようやく折り目を開く。
中には、短い文章が一つだけ書いてあった。
『明後日、夕方。会いたい。夏休みの最初、先にほしいから』
ぞっとするくらい簡潔だった。
会いたい、だけじゃない。
“最初、先にほしい”という一文が、全部持っていっている。
そこへ、タイミングを計ったみたいにスマホが震えた。
白須賀からだった。
『メモ見た?』
早い。
しかも、見た前提で来るのが怖い。
僕がすぐに返せずにいると、さらに一件届く。
『返事、迷ってもいいよ』
『でも、その時間は空けておいてね』
迷ってもいい。
でも時間は空けておけ。
ほとんど命令だった。
歩きながらその画面を見ていたせいで、危うく人とぶつかりかける。慌てて顔を上げると、ちょうど学校の外へ出た天雨が少し先にいた。
目が合う。
天雨は一瞬だけスマホ、次に僕の顔を見て、すぐに状況を察したらしい顔をした。
「……来たんだ」
「何が」
「白須賀さんから」
もう隠すのが無理な気がしてくる。
天雨は少しだけ足を止め、僕のほうへ歩幅を合わせた。
「答えるの?」
「まだ」
「でも行くんでしょ」
「……」
「そういう顔してる」
今日何回目だ、それは。
天雨は少しだけ視線を前へ戻してから、低い声で言った。
「じゃあ、私も先に言う」
「何を」
「夏休み最初の土曜、午前、空けて」
さらっと言う。
「図書館でも、どこでもいい。でも、白須賀さんより先に、一回ちゃんと私の時間ほしい」
それは、普段の天雨にしてはかなり踏み込んだ言い方だった。
しかも言葉だけじゃない。
歩きながら、彼女の指先が一瞬だけ僕の手の甲に触れる。触れて、すぐ離れる。なのに、その短さのほうが余計に残った。
「順番、取るんだ」
僕が半分冗談でそう言うと、天雨は真顔でうなずいた。
「取るよ」
その答えがあまりに迷いなくて、返す言葉を失う。
※ ※ ※
その日の夜、家で夕食を終えたあと、僕は机の上に三つの封筒と一枚のメモを並べていた。
白須賀の手書きメモ。
天雨の夏休み予定表。
柊先輩の生徒会補助スケジュール。
そしてスマホの中で、まだ既読だけつけて返せていない白須賀のメッセージ。
夏休み前日だというのに、すでに予定が“自分のもの”ではなくなり始めている。
しかも、それぞれの重さの種類が違う。
白須賀は、成功したあとでさらに欲しがる重さ。
天雨は、静かな顔で順番を取りにくる重さ。
柊先輩は、管理という形へ変換して囲い込む重さ。
ろくでもない。
でも、これがまだ入口だという気しかしない。
そこへ、もう一度スマホが震えた。
今度は白須賀じゃなかった。
玲音からだった。
『夏休み入るね』
たったそれだけ。
でも、その短さの中に、妙な含みがある。
僕が返信に迷っていると、さらに追撃が来る。
『沙也加、今かなり面倒な時期だと思うから』
『気をつけて』
気をつけて、の意味が広すぎる。
でも、あの東京ドームを見たあとだと、玲音の言葉は妙に現実的だった。白須賀は成功した。成功したからこそ、もっと重く、もっと近く、もっと遠慮なくなっている。
そして多分、その変化を喜ばしく思っていないのは、白須賀だけじゃない。
部屋の窓の外で、蝉が本格的に鳴き始めた。
明日から夏休み。
普通の高校生なら、それなりに浮かれるはずの言葉だ。
でも僕の机の上に並んでいるものは、夏の自由なんかじゃなかった。
それぞれ違う熱で、違うやり方で、僕の時間を先に確保しようとしてくる気配ばかりだ。
そして、その全部の中心に、東京ドームを成功させたばかりの白須賀沙也加がいる。
画面の上では、白須賀からの最新メッセージがまだ静かに光っていた。
『最初は私にちょうだい』
その文面が、やけに官能的で、やけに一方的で、そしてどうしようもなく面倒だった。
夏はまだ始まっていない。
なのにもう、僕の逃げ道だけが先に塞がっていく音がした。
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