たくさん困らせるから
白須賀沙也加が学校へ戻ってきたのは、終業式の三日前だった。
朝の教室は、僕が入った時点ですでに落ち着きを失っていた。
原因は分かりきっている。東京ドーム単独公演の大成功。テレビでもネットでも、もう何度も何度も“国民的アイドル”という言葉が踊っていた。そんな人間が、何事もなかったみたいな顔でまた教室へ来るのだから、騒がないほうが無理だ。
「来るかな」
「いや、今日はもう来ないんじゃ……」
「でも担任、公欠終わるって言ってたし」
そんな囁きが飛ぶ中、教室の扉が開いた。
「おはよう」
たったそれだけで、空気が一気に変わった。
白須賀は、いつもと同じ制服姿だった。
けれど同じなのは服だけで、纏っているものは確実に前と違う。東京ドームを成功させたあと、彼女の中で何か一段階、輪郭が濃くなったのが分かる。目立つとか綺麗とか、そういう話じゃない。ただ、そこにいるだけで教室の中心が自然に決まってしまう。
「白須賀さん! おめでとう!」
「ライブ見た! やばかった!」
「ニュースめっちゃ出てたよね!」
あっという間に囲まれる。
白須賀はその全部へ、ちゃんと笑って応えていた。
「ありがとう。来てくれた人もいたみたいでうれしかったよ」
「まだちょっとふわふわしてるけど、ちゃんと学校戻ってきましたー」
明るい。柔らかい。完璧だ。
でも、僕はその向こう側を知ってしまっている。
控室。
唇へ残った感触。
“次はちゃんと沢渡くんも私のものにする”という、冗談みたいな顔で落とされた言葉。
そんなことを思い出した瞬間、ちょうど白須賀と目が合った。
彼女はクラスメイトに囲まれたまま、ほんの少しだけ目を細める。
その一瞬だけ、教室のみんなへ向けるアイドルの笑顔じゃなく、僕だけへ向ける私的な色が混ざった。
嫌な予感しかしない。
結局、朝のホームルームが始まる直前になって、ようやく人だかりが解けた。
白須賀は当然みたいに僕の隣へ座る。椅子を引く音までいつも通りなのに、その“いつも通り”が今はまるで落ち着かなかった。
「ただいま」
小さな声だった。
前を向いたまま、でもはっきり僕へ向けた声音。
「……おかえり」
「うん」
そこで彼女は、机の下でそっと僕の袖をつまんだ。
ほんの指先だけ。誰にも見えない位置。でも、その控えめな接触のほうが、むしろ余計に意識を持っていかれる。
「忘れてないよね?」
耳元に近い距離で囁かれて、背筋が変に熱くなる。
「……何を」
「昨日のこと」
そんなの、忘れられるわけがない。
僕が返事を詰まらせると、白須賀は満足したみたいに小さく笑った。
担任が入ってくる気配がして、指先だけが静かに離れる。なのに、そのわずかな温度だけがいつまでも残った。
※ ※ ※
終業式前の時期の授業なんて、元から集中できるものじゃない。
それなのに今日は、隣に白須賀が戻ってきたせいで、余計にひどかった。
板書を写している途中で、ふいに甘い匂いがする。
ノートをめくる音が近い。
たまに視線を感じて顔を上げそうになる。
僕が変に肩をこわばらせているのが分かるのか、白須賀は時々わざとらしく何でもない顔で前を向いていた。余裕がある。完全に遊ばれている。
二時間目が終わった休み時間。
僕がようやく息を吐いたところで、白須賀が自然な顔で言った。
「沢渡くん、夏休みの予定ってどれくらい空いてる?」
「いきなり何」
「だって、もうすぐでしょ」
「まあ、そうだけど」
「私は結構埋まってるよ」
知ってる。
むしろ埋まっていて当然だ。ライブ後も取材や収録やらで、白須賀沙也加の予定表は一般人のそれとは別物だろう。
「でもね」
白須賀はそこで、少しだけ僕のほうへ顔を寄せた。
「空いてるところは、なるべく先に押さえたいなって思ってる」
「押さえたいって」
「沢渡くんの時間」
さらっと言うな。
しかも、休み時間の教室だ。周囲では誰かが談笑していて、窓際では別のグループがスマホを見て盛り上がっている。そんな日常の真ん中で、僕の心臓にだけ悪い会話をするのはやめてほしい。
「夏休み、長いじゃん」
白須賀は続ける。
「だから、そのぶん何かある前に予約しとこうかなって」
「美容院みたいに言うのやめて」
「ふふっ。でも、似たようなものかも」
似ていない。絶対に似ていない。
そこでちょうど、僕の前の席から椅子を引く音がした。
天雨美鈴が、ゆっくりこちらを振り返る。
「白須賀さん」
「なに?」
「朝から沢渡くんを固めすぎ」
静かな声。
でも、よく効く。
白須賀は目を瞬かせたあと、少しだけ笑う。
「えー、そんなつもりないよ?」
「あるよ」
天雨は即答した。
「今日ずっと、からかって楽しんでる顔してる」
「からかってるんじゃないもん」
「じゃあ、何」
その問いに、白須賀は一瞬だけ黙る。
ほんの短い沈黙のあとで、白須賀は何でもないみたいに言った。
「大事にしてるだけ」
その言い方が、妙にやわらかい。
やわらかいのに、内容だけが重い。
天雨の眉が、ほんの少しだけ寄る。
「それ、自分だけの顔で言うのずるい」
「美鈴ちゃんも似たような顔するくせに」
空気が、ぴんと張る。
周囲のクラスメイトが気づくほどじゃない。
でも僕の席の周りだけ、別の温度が生まれているのははっきり分かった。
天雨はしばらく白須賀を見て、それから僕へ視線を移した。
「沢渡くん、昼休み、先行ってて」
「え」
「話したいことあるから」
それだけ言って、また前を向く。
今日は白須賀の次に天雨、みたいな単純な流れにしたくないと頭のどこかで思っていたのに、現実のほうが勝手にそういう火種を増やしてくるから困る。
※ ※ ※
昼休み、僕は屋上ではなく図書室の奥へ逃げた。
逃げた、という表現が一番正しいと思う。
今日はいつもの屋上へ行ったら、白須賀も天雨も来そうだったし、そうなると落ち着いて昼食どころではない気がした。
人の少ない閲覧席でサンドイッチを開いたところで、足音が近づいてくる。
嫌な予感がして顔を上げると、そこにいたのは柊綾乃先輩だった。
「……なんで僕の居場所が毎回分かるんですか」
「分かりやすいからよ」
それももう聞き飽きた答えだった。
柊先輩は向かいの席へ座り、持っていたファイルを机に置く。
「今、少しだけ時間ある?」
「もう座ってますよね」
「ええ」
相変わらずだ。
でも今日は、先輩の様子もどこかいつもと違った。
生徒会の仕事の延長みたいな空気はある。けれど、それだけで来た顔じゃない。
「夏休み前のオープンキャンパス、学生補助の割り振りをしているのだけれど」
「まさか」
「まさかよ」
嫌な予感が当たった。
「学校側としては、ショートドラマの件もあって、あなたを少し表へ出したいらしいわ」
「やめてください」
「私もそう思う」
即答だった。
「だから断る方向で調整してる。でも、そのためには“すでに予定がある”という建前が必要」
「つまり?」
「夏休み序盤、何日か私に貸しなさい」
意味が分からない。
「生徒会の手伝いという名目で押さえるの」
柊先輩は平然と言う。
「そうすれば、学校側も簡単には他へ回せないし、白須賀さん側に全部持っていかれることもない」
「……さらっと変なこと言いませんでした?」
「言っていないわ」
「言ってました」
でも、柊先輩は少しも動じない。
「私は管理したいだけよ。あなたの予定がどこまで埋まって、誰にどれだけ接触される可能性があるかを」
「それ、管理っていうか監視じゃ」
「違いは受け取り手の問題ね」
怖い。
柊先輩はそこで、机の上に指先を揃えた。
長い睫毛の影が落ちて、その横顔がやけに整って見える。
「白須賀さん、今日かなり機嫌がいいでしょう」
「……まあ」
「成功した直後の人間は、だいたい欲しいものを取りに来るものよ」
昨日、玲音にも似たようなことを言われた気がする。
しかも柊先輩の口から出ると、妙に現実味が増すから質が悪い。
「だから夏休みの最初くらい、少し整理させなさい」
「僕の予定を?」
「ええ」
そこまで言ってから、柊先輩は少しだけ声を落とした。
「私の知らないところで、勝手にあなたを持っていかれるのは面白くないもの」
その一言が、びっくりするくらい静かで、そして重かった。
先輩は普段、感情より理屈で話す。
だからこそ、今の言葉のほうがよほど危ない。
「……先輩、それ」
「何かしら」
「かなり面倒です」
「知っているわ」
知っているのか。
柊先輩はそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「でも、面倒なままにしておくより、把握できる面倒のほうがまだマシでしょう?」
その理屈は、たしかに先輩らしい。
感情を感情のままぶつけるんじゃなく、一度“管理”という形へ直してから差し出してくる。
ある意味で、一番逃げにくいタイプかもしれなかった。
※ ※ ※
放課後になると、白須賀はまたいくつかの囲みを自然に受け流しながら、教室の空気を自分のペースへ引き寄せていた。
東京ドームの感想を聞かれても、調子に乗りすぎない。
先生に声をかけられても、きちんと礼をする。
周囲の“すごい”を笑顔で受け止めながら、それでも自分からは必要以上に大きくならない。
そういうバランスの取り方までうまい。
だから余計に、僕だけが知っている昨日の白須賀との落差が怖い。
帰ろうと席を立ったところで、白須賀が当然みたいに僕の横へ来た。
「一緒に帰る?」
「帰れないでしょ、君」
「今日は途中まで車来るから大丈夫」
「そういう問題じゃなくて」
「じゃあ、途中まででいいよ」
断りづらい言い方をする。
しかも、その会話を天雨が聞いているのも分かる。もっと言えば、柊先輩も廊下の向こうからちらっとこっちを見ていた。
夏休み前って、こんなに息苦しい季節だっただろうか。
校門を出ると、空は夕方の色になりかけていた。
少し蒸す。セミの鳴き声が、まだ本格的じゃないくせに、もうすぐそこまで来ている夏を予告している。
「ねえ」
白須賀が、歩きながら言った。
「今日、ちょっと楽しかった」
「何が」
「学校」
その答えは意外だった。
「ライブ終わったし、取材もいっぱいあるし、戻ったらもっと窮屈かなって思ってたんだけど」
白須賀は夕陽のほうを眩しそうに見る。
「でも、ちゃんと沢渡くんの隣に座れたから、思ったより全然平気だった」
その一言が、甘いみたいで、でも全然軽くない。
「……それだけで?」
「うん。それだけで」
白須賀は笑う。
少しだけ疲れているのに、その目の奥だけは昨日よりさらに強くなっている。
「やっぱり、成功すると欲張りになるね」
「自覚あるんだ」
「あるよ」
そこで彼女は、ほんの少しだけ僕との距離を詰めた。
「昨日までは、“ちゃんと見ててほしい”だったの」
「うん」
「でも今は、もっと近くにいてほしい」
息がかかるほどじゃない。
でも、肩が触れそうな距離。
「夏休み、始まるでしょ」
「……始まるね」
「だから、たくさん会えるね」
その言い方に、普通の恋人っぽい明るさはない。
もっと静かで、もっと計画的で、もっと逃げ場がない。
「予定、空けといてね」
「もうみんな同じこと言うんだけど」
「みんな?」
その一言だけで、白須賀の声の温度が少し変わった。
しまった、と思った時には遅い。
「誰が?」
「いや……別に」
「別に、じゃないでしょ」
笑顔のまま聞いてくる。
笑顔のままなのに、こっちの逃げ道だけがじわじわ塞がっていく。
「美鈴ちゃん?」
「……」
「副会長さん?」
なぜ分かる。
僕が黙っていると、白須賀は少しだけ目を細めた。
「そっか」
「何が」
「やっぱり、夏休みって面倒になりそうだなって」
その言葉の意味を、僕は聞き返せなかった。
ちょうどそのタイミングで、事務所の送迎車らしい黒い車が路肩へ寄る。
白須賀はそれをちらっと見てから、最後に僕のほうへ向き直った。
「でも、先に言っとく」
「何」
「私、譲る気ないから」
夕方の光の中で、その笑顔だけが妙に綺麗だった。
「夏休み、たぶん長いよ」
そう言って、白須賀は車へ乗り込む。
閉まるドアの寸前で、もう一度だけ僕を見た。
「だから、そのぶんたくさん困らせるね」
車は静かに走り出す。
残された僕は、その場でしばらく動けなかった。
東京ドームは終わった。
白須賀沙也加は、もう本当に“国民的アイドル”と呼ばれる側へ行った。
なのに、夏休みの入口で僕を待っているのは、眩しい成功の余韻なんかじゃない。
それぞれ違う形で重くなっていく、面倒で、執着が強くて、やたら距離の近い感情の渦だ。
しかもそれは、今日みたいな平日の学校の中でさえ、もう隠しきれなくなっている。
セミが一匹だけ、校門の近くで鳴き始める。
夏が来る。
その実感と一緒に僕の中へ落ちてきたのは、期待よりずっと質の悪い予感だった。
多分、今年の夏休みは、僕のものにはならない。
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