隣を取り返したいし
翌朝、目が覚めた瞬間から、昨日のことが夢じゃなかったと分かった。
テレビをつけるまでもない。
スマホの通知欄が、すでにその証拠だった。
ニュースアプリの見出し。
動画サイトの急上昇。
クラスのグループチャットの未読件数。
どこを見ても、白須賀沙也加の名前が並んでいる。
『歴史的成功』
『初単独東京ドーム、大熱狂』
『“国民的アイドル”を証明した一夜』
大げさだと思えないのが、一番怖かった。
昨日、あの場にいた人間なら、そう書かれても反論できない。僕ですらできない。
問題は、そのニュースの中に、何度か僕まで映り込んでいることだった。
関係者席のカット。
終演後の囲み取材を遠目に見ている場面。
どれも一瞬だ。でも、一瞬で充分だった。
「……最悪だ」
思わず声に出た。
東京ドームの成功だけで終わるならまだいい。
なのに、昨日のショートドラマの件も残っているせいで、“またあの在校生がいる”みたいな反応まで少し混ざっている。
しかも、一番上に固定みたいに残っているメッセージがある。
『忘れてないよね?』
白須賀からの、たったそれだけの文面。
昨夜は結局、返信できなかった。
なんて返せばいいのか分からなかったし、下手なことを打ったら、その一文だけで何かが決定的に変わってしまいそうだった。
でも、未読のままにしていても、画面の上に残り続ける。
忘れてないよね、という短い言葉が、昨日のキスよりもよほど執拗に僕の頭に残っていた。
※ ※ ※
学校へ着いた時点で、もう嫌な予感しかしなかった。
校門前の空気が、昨日までと違う。
誰かが僕を待ち構えているとか、そういう露骨な感じじゃない。もっと嫌な形で、みんなが“知っているけれど話しかけるタイミングを計っている”空気になっている。
そして、その中心にまたしても僕がいる。
教室へ入った瞬間、数人が同時にこっちを見た。
「お、おはよう……」
「沢渡、昨日いたよな?」
「ニュース映ってたじゃん!」
やっぱり来た。
「たまたまだよ」
「たまたまで東京ドームの関係者席いるわけないだろ」
その通りすぎて反論が弱くなる。
席へ着くまでの数歩で、すでに何人かが質問を投げようと身構えているのが分かった。
でも、今朝はそれが長く続かなかった。
「朝からうるさい」
静かな声で割って入ったのは、天雨美鈴だった。
いつの間にか僕の机の横へ来ていて、いつも通りの落ち着いた顔をしている。
ただし、その目だけは全然穏やかじゃない。
「昨日のライブがすごかったのは分かるけど、だからって沢渡くんに群がる理由にはならないでしょ」
「いや、群がるってほどじゃ……」
「なってるよ」
ぴしゃり、とまではいかない。
でも、十分に効く声だった。
何人かが気まずそうに引く。
朝から助かったような、別の意味で全然助かっていないような、複雑な気持ちになる。
天雨はそのまま僕を見た。
「顔色悪い」
「寝不足」
「だろうね」
それだけ言って、自分の席へ戻る。
けれど、その背中からは“後でちゃんと話聞くから”みたいな圧が消えていなかった。
※ ※ ※
一時間目と二時間目の間の休み時間には、今度は柊先輩に捕まった。
いや、捕まったというより、廊下で待ち伏せされていたに近い。
「沢渡くん、少し」
「……はい」
最近の僕は、本当にこの人の“少し”に慣らされてきている気がする。
柊先輩は人気の少ない階段前まで歩くと、そこで振り返った。
「昨日の件、お疲れさま」
「先輩までニュース見たんですか」
「学校関係者なら嫌でも入るわよ。今日は朝から職員室がその話で持ちきりだもの」
それはそうかもしれない。
白須賀沙也加が東京ドームを成功させた。それだけでも十分大きい。そこに、同じ学校の在校生が関係者席へいたとなれば、余計に話題になる。
「広報の先生は喜んでるわ」
「嫌な予感しかしない言い方ですね」
「その予感は正しいわ」
即答だった。
「学校としては、白須賀さんが“本校在籍の生徒”であることを前面に出したい。けれど、私はやめたほうがいいと思っているの」
「なんでですか」
「単独ライブは彼女自身のものだから。学校の手柄みたいに扱うのは違うでしょう」
その言い方に、少しだけ救われる。
柊先輩はこういうところで、妙に筋が通っている。
「ただ、それとは別に」
そこで彼女は一拍置いた。
「あなた、昨日のあと、白須賀さんに会ったでしょう」
心臓が跳ねた。
「……なんで」
「見れば分かるわ」
柊先輩は淡々としている。
「ライブ後の人間の顔を、私は何度か見たことがある。達成感、疲労、圧倒、興奮。そういうのとは少し違う顔をしてるから」
鋭すぎる。
天雨もそうだったけれど、どうしてこう、この人たちは僕の“隠したつもり”だけを正確に見抜いてくるのか。
「言いたくないなら聞かないわ」
柊先輩は続ける。
「でも、もしあの人が昨日を境にさらに距離を詰めてくるなら、今まで以上に面倒になる」
「さらっと怖いこと言いますね」
「事実よ」
容赦がない。
「東京ドームを成功させた人間は、普通の達成感だけでは止まらないことがあるから。特に、もともと執着が強いタイプならなおさら」
白須賀の顔が浮かぶ。
控室で見た、あの静かな笑顔。
“次はちゃんと沢渡くんも私のものにする”と、冗談みたいな顔で言った声。
柊先輩はそんな僕の沈黙を見て、小さく息をついた。
「……まあ、もう遅いのかもしれないけれど」
それだけ言い残して、先輩は階段を上がっていった。
僕はその場でしばらく動けなかった。
今の一言が、妙に現実味を持って刺さってくる。
※ ※ ※
昼休み。
屋上へ行くと、今日は珍しく誰も先にいなかった。
風が強い。
ベンチへ座ってパンの袋を開けても、昨日のライブの光景が勝手に頭の中へ戻ってくる。
登場の瞬間。
最初のMC。
最後のバラード。
そして、控室でのキス。
情報量が多すぎて、心が全然追いついていない。
「……いた」
扉の音と一緒に聞こえたのは、白須賀の声じゃなかった。
天雨だ。
今日はいつもより歩幅が少しだけ早い。
そのままベンチの僕の隣へ座ると、開口一番で言った。
「会ったでしょ、昨日」
反射的に、息が止まりかける。
「……誰に」
「白須賀さん」
逃がしてくれない。
天雨は今日、妙に真っ直ぐだった。
もともと静かな人だけど、こういう時に限って回り道をしない。
「ニュースのあと、学校の関係者で呼ばれてた人の中に沢渡くんがいたって、うちのクラスでも話になってた。それに、今日の顔見たら分かる」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
今日は何度目だ、その言葉。
天雨は膝の上で手を組みながら、少しだけ視線を落とした。
「……私、昨日ちゃんと見たよ」
「ライブ?」
「うん」
その返事には、妙な力があった。
「すごかった。悔しいけど、本当に。あれ見たら、白須賀さんが今どこに立ってる人なのか、嫌でも分かる」
それは多分、本心なんだろう。
認めたくなくても認めるしかない、みたいな響きがあった。
「だから余計に嫌だった」
「何が」
「沢渡くんが、その人に見つけられてるの」
その言葉は静かだった。
静かなのに、逃げ場がなかった。
「東京ドームの真ん中に立つ人が、ライブ終わったあとで一番会いたいのが沢渡くんなんだとしたら、それってもう普通じゃないでしょ」
僕は何も言えない。
なぜなら、それは多分、その通りだからだ。
天雨は少しだけ僕を見る。
その目は、怒っているというより、じっと耐えている感じに近かった。
「何されたの」
「……」
「言いたくないなら言わなくていい。でも、何かあった顔してる」
言えない。
言えるわけがない。
控室でキスされたなんて、そんなの口にした瞬間に、この静かな屋上の空気ごと壊れる気がした。
僕が黙り続けていると、天雨は小さく息を吐く。
「そっか」
それ以上は聞いてこなかった。
でも、その代わりに次の一言だけが重かった。
「じゃあ、私はもっとちゃんと近くにいないと」
「……何それ」
「負けたくないから」
今日の天雨は、本当に隠さない。
「白須賀さんみたいに東京ドームで何万人を動かせなくても、沢渡くんの近くにいることなら、私だってできる」
その宣言は、告白とは違う。
でも、執着の形としては、かなり危ないところまで来ている気がした。
※ ※ ※
放課後、教室を出る直前にスマホが震えた。
画面を見ると、白須賀からだった。
『放課後、少しだけ会える?』
短い。
でも、昨日の“忘れてないよね?”よりはるかに心臓に悪い。
返信を迷っていると、また一件届く。
『学校の近くには行かないから安心して』
『場所、送るね』
そこまで読むと、ほとんど選択権がない。
しかも、少しだけ会える?と聞いている形なのに、もう行動は全部決まっているあたりが、この人らしくて怖かった。
送られてきたのは、学校から少し離れた場所に停まる車の位置情報だった。
事務所の送迎車なのだろう。たしかに、そこなら学校ぐるみでも何でもない。完全に白須賀個人の動きだ。
僕は少しだけため息をついて、荷物をまとめる。
すると、その瞬間に背中から声がした。
「行くんだ」
天雨だった。
いつの間にか、じっとこっちを見ている。
「……何が」
「今、白須賀さんから来たでしょ」
勘が良すぎる。
「顔で分かる」
今日は何度顔でバレるんだろう。
僕が返事に困っていると、天雨は少しだけ口元を引く。
「止めないよ」
「止めないんだ」
「止めたいけど」
そう言ったあと、天雨は静かに続けた。
「でも、今止めたら、私のほうが後悔するから」
その意味を考える前に、今度は廊下の向こうから柊先輩がこちらを見ているのに気づいた。
目が合う。
何も言わない。でも、その視線だけで“やっぱりそうなるのね”と言われた気がした。
逃げ場がない。
※ ※ ※
指定された場所へ行くと、黒い車が一台、静かに停まっていた。
後部座席の窓が少しだけ開き、中から白須賀が顔を出す。
「こっち」
その声がやけに普通で、逆に困る。
僕が乗り込むと、車内には白須賀しかいなかった。
運転席との間には仕切りが下りていて、外の音もほとんど入らない。
「……一人なんだ」
「うん。少しだけ抜けてきた」
「大丈夫なの、それ」
「大丈夫じゃないけど、会いたかったから」
その言い方が、まるで当たり前みたいで怖い。
白須賀は今日は私服だった。
とはいえ、どこから見ても普通の高校生じゃない。キャップで髪を隠していても、黒縁の眼鏡をかけていても、顔立ちそのものが目立ちすぎる。
でも今は、そんなことよりも、彼女の目のほうが気になった。
昨日のライブ終わりより少し疲れている。
取材も、ニュース出演も、事後コメントも山ほどあったのだろう。なのに、その目だけは妙に冴えていた。
「昨日、返事くれなかったね」
開口一番、それだった。
「……何て返せばいいのか分からなかった」
「そっか」
白須賀は少しだけ笑う。
でも、その笑顔の奥にあるものは全然軽くない。
「でも、忘れてなかったでしょ?」
そこを確認してくるのが、この人だ。
「……忘れられるわけない」
正直にそう言うと、白須賀は目を細めた。
「うん。それでいい」
満足したみたいに頷く。
それから、少しだけ距離を詰めてくる。
「今日ね、いろんな人に会ったの」
「うん」
「取材の人、スポンサーさん、業界の偉い人、番組スタッフ、記者さん。みんなおめでとうって言ってくれて、すごいって言ってくれて、これからもっと売れるねって言ってくれて」
白須賀はそこで一度言葉を切る。
「でも、全然足りなかった」
「……足りない?」
「うん」
その返事は迷いがない。
「だって、沢渡くんにちゃんと見てもらったって感じがしなかったから」
また、そう来る。
この人はもう、僕の反応を“その他大勢とは別枠”で扱っているのを隠す気がない。
「昨日のあと、ずっと思ってたの」
白須賀の声は静かだった。
「東京ドーム、成功した。あんなにたくさんの人が私を見てくれた。でも、それでもまだ欲しいって、ちょっとおかしいよね」
「……何が」
「沢渡くんの反応」
言いながら、白須賀は僕の袖に触れる。
「もっとちゃんと欲しい」
その一言で、車内の空気が変わる。
「すごかった、だけじゃ足りない。綺麗だった、でも足りない。私が昨日、何を渡したか。沢渡くんの中で、どう残ったか。そこまで知りたい」
欲しいものの解像度が高すぎる。
しかも、それを一切隠していない。
「白須賀さん」
「うん」
「だいぶ重いよ、それ」
「知ってる」
即答だった。
しかも、まったく悪びれない。
「でも、昨日のライブで分かったんだもん。私、何万人に好かれても、多分足りない。沢渡くんに一番深く残れないなら、意味が薄い」
それはもう、恋愛感情とかそういう単語だけでは片づけきれない。
執着。独占。そういうもっと重たいものが、白須賀の中で明確な形を取り始めている。
そして、多分。
それは天雨や柊先輩が危惧していた“東京ドーム成功後の白須賀”そのものだった。
白須賀は僕の反応を見て、少しだけ笑った。
「大丈夫。急がないよ」
「ほんとに?」
「うん。でも、逃がさないだけ」
矛盾しているようで、この人の中では全然矛盾していない顔だった。
「あと、明日から学校戻るね」
「え?」
「少しだけだけど」
その一言に、僕は一瞬だけ固まる。
「ライブ終わったから、ずっと休むわけにもいかないし。課題もたまってるし。それに」
白須賀はそこで、ほんの少しだけ口元を上げた。
「沢渡くんの近く、ちゃんと取り返したいし」
その言い方が、あまりに自然で、あまりに危ない。
僕は多分、その瞬間に理解した。
東京ドームで国民的アイドルとしての名前を上げた白須賀沙也加は、そこで終わらない。
むしろ成功したからこそ、もっと貪欲に、もっと個人的に、欲しいものを取りに来る。
そしてその“欲しいもの”の中に、今、僕が含まれている。
白須賀は僕の袖を軽く引いたまま、昨日よりずっと穏やかな顔で言った。
「明日、ちゃんと隣座るから」
その一言が、なぜか昨日のキスより先に、学校という現実をひどく歪ませた。
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