君はもう私のもの
呼吸の仕方を忘れたみたいに、胸のあたりが変に熱かった。
何か言わなきゃいけない。
そう思うのに、頭の中はさっきの一瞬で真っ白になっていて、まともな言葉が一つも出てこない。
「……なんか言ってよ」
白須賀が、少しだけ拗ねたみたいな声を出す。
さっきまでの重さをそのまま引きずっているくせに、その言い方だけ妙に年相応で、余計に反応に困る。
「いや……今の、いろいろ急すぎて」
「急じゃないよ。私の中では、全然急じゃなかった」
即答だった。
白須賀は僕の袖から指先を離さないまま、少しだけ首を傾げる。
「むしろ遅いくらい」
「何が」
「こうするの」
そう言って、もう一度だけ僕の口元へ視線を落とす。
思わず一歩引きそうになったのを、ぎりぎりで堪えた。
「……白須賀さん」
「うん」
「今の、ライブの勢いとかじゃなくて?」
「勢いでこんなことしない」
そこで彼女は、ほんの少しだけ笑う。
「勢いなら、もっと早くしてる」
返しが強すぎる。
しかも、冗談で逃がしてくれる雰囲気もない。
控室の外で、誰かが通る足音がした。
それだけで僕の心臓はまた変な鳴り方をする。今この部屋の中で起きていることを、外の誰かに知られたら終わる。いや、もういろんな意味で終わっているのかもしれないけど。
白須賀はそんな僕の様子を見て、少しだけ目を細めた。
「怖い?」
「……怖いっていうか」
「うん」
「処理が追いついてない」
「そっか」
その返しは、意外なくらい穏やかだった。
でも、穏やかなだけで終わらないのがこの人だ。
「じゃあ、追いつくまで覚えててね」
「覚えてて、って」
「今のこと」
白須賀はそう言って、自分の唇へ軽く触れる。
「消さないで」
その一言が、キスそのものよりずっと危なかった。
僕が言葉を詰まらせていると、ちょうどそこで控室の扉がノックされた。
「白須賀さん、五分後に囲み取材です」
スタッフの声だった。
「はーい」
返事をした瞬間、白須賀の表情が切り替わる。
怖いくらい自然だった。
さっきまで僕へ向けていた重い視線を、きれいに胸の奥へ仕舞い込んで、代わりに“白須賀沙也加”として完成された笑顔を浮かべる。東京ドームを成功させた国民的アイドルの顔だ。
なのに、その切り替わりの前を僕は見てしまっている。
だからもう、あの笑顔だけを見て安心することはできない。
「沢渡くん」
白須賀は最後に、声を少しだけ落として言う。
「今のこと、ちゃんと自分の中で大きくしておいて」
「大きくって」
「私がしたこと」
その言葉は、ほとんど確認じゃなく命令に近かった。
「小さく処理しようとしたら、嫌だよ」
それだけ言うと、白須賀は何事もなかったみたいに鏡の前へ戻る。
スタッフが入ってきてもおかしくないタイミングだった。もうここに残るのは、いろんな意味で無理だ。
「……行く」
「うん」
僕がようやくそれだけ言うと、白須賀は鏡越しにこちらを見た。
「終わったら、また会おうね」
その“また”が、軽く聞こえない。
※ ※ ※
控室を出たあとも、しばらく足元がふわついていた。
ドームの裏通路はまだ慌ただしい。スタッフが行き交い、遠くでは撤収準備の音がしている。現実はちゃんと進んでいるのに、僕のほうだけがうまく追いついていない。
キスされた。
しかも、東京ドームを成功させた直後の白須賀に。
それだけでも十分情報量が多いのに、そのあとに言われた言葉のほうが、むしろ頭から離れない。
印をつけた。
手放す気がない。
次はちゃんと僕を自分のものにする。
怖い。
でも、その怖さの中に妙な熱が混ざっているせいで、余計に質が悪い。
「……うわ、ほんとにやられた顔してる」
声がして顔を上げると、少し先の自販機前に玲音が立っていた。
腕を組んで、いかにも面白がっていそうな顔でこっちを見ている。
見られたくない相手に、一番見られたくないタイミングで見つかった気分だった。
「なんでいるの」
「そりゃ帰る前に水くらい買うでしょ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
玲音はペットボトルを片手で揺らしながら近づいてくる。
「沙也加に呼ばれたの、見えてたし」
最悪だ。
僕が顔をしかめると、玲音は少しだけ笑った。
「で?」
「何が」
「何があったの」
「言わない」
「へえ」
玲音はそこで、僕の顔を下から覗き込むように見た。
「でも、だいたい分かるかも」
「分かるな」
「分かるよ。あんなライブやったあとだし。沙也加、絶対変なテンションになってると思ったもん」
変なテンション、で済ませていいのかは微妙なところだ。
多分、白須賀はあれをテンションでは片づけない。もっとずっと意識的で、もっとずっと厄介だ。
「……玲音」
「なに」
「白須賀って、前からあんな感じなの」
聞くと、玲音は一瞬だけ黙った。
「前から強いよ。欲しいものにまっすぐなのも前から。でも、今日の沙也加は多分、いつもより止まる気ない」
その言い方は妙に現実的だった。
「東京ドーム成功しちゃったからね」
「成功しちゃったって」
「そう。成功したら、人って少し壊れることあるじゃん」
玲音は軽く言う。
でも、その目は笑っていなかった。
「ずっと欲しかったものを取った直後って、安心するより先に、“じゃあ次は何を取りにいく?”ってなる人、いるでしょ。沙也加、たぶんそういうタイプ」
「……笑えないんだけど」
「私も別に笑ってないし」
玲音はそこで少しだけ息を吐いた。
「気をつけなよ、って言いたいわけじゃない。多分もう遅いから」
「遅いって何」
「巻き込まれるの」
はっきり言われると、否定しづらい。
玲音はペットボトルのキャップを開けながら、どこか面倒そうに続けた。
「でも、まあ……今日のライブのあとなら、沙也加がそうなるのも分かる」
「なんで」
「沢渡が見てたから」
それは、思っていた以上に迷いのない声だった。
「今日の沙也加、多分ずっと探してたよ。客席」
「……そんなわけ」
「ある。私はそう見えた」
玲音はそこでほんの少しだけ肩をすくめる。
「だから、あんたもちゃんと責任取れば」
「なんで僕が」
「知らない。でも、沙也加はそう思ってるでしょ」
それだけ言って、玲音は先に歩き出した。
数歩先で振り返り、少しだけ嫌そうに口を曲げる。
「あと、一応言っとくけど」
「何」
「今日のあれ見たあとで、他の子にふらふらしたら、ほんと面倒なことになるから」
白須賀とまるで同じ種類のことを言われて、僕はその場で立ち尽くすしかなかった。
※ ※ ※
関係者席の近くまで戻ると、まだ明日香たちがいた。
明日香は僕を見るなり、すぐに顔を上げた。
「おかえり! っていうか遅くない?」
「仕方ないだろ」
「え、なになに、何話したの!?」
距離が近い。
この人は本当にまっすぐ飛び込んでくる。
「何も」
「その顔で何もは無理あるって」
明日香がじっと覗き込んでくる。
僕が視線を逸らすと、今度は静が横から口を挟んだ。
「明日香、あまり詰めないで」
「だって気になるし」
「気になるのは分かるけど、今は余白を与えたほうがいい顔をしてる」
余白って何だ。
でも、静の言い方は妙に的確だった。
神代が苦笑する。
「ずいぶん深刻そうじゃん」
「そっとしといてやれよ」
二階堂までそんなことを言う。
この二人、ショートドラマの時よりずっと余計な熱が抜けていて、逆に話しやすくなっている気がした。
ただ、明日香だけは納得していない顔だった。
「えー、絶対なんかあったじゃん」
「……あったとしても言わない」
「うわ、あったんだ」
墓穴だった。
明日香の目がきらっとする。
静がその横で、やれやれという顔をした。
「裕二くん、あなた、本当に隠すの下手ね」
「西条さんに言われたくないんですけど」
「私は隠す必要があることしか隠さないもの」
さらっと怖いことを言う。
その時、通路の向こうでスタッフの一団が動き出した。
囲み取材が始まるらしい。記者たちが位置につき、カメラが一斉に構えられる。
そして、その中心に白須賀が現れる。
さっき控室で見たのと同じ衣装、同じメイク。
でも、もう完全に“公の白須賀沙也加”の顔に戻っていた。
『本当に幸せな時間でした』
『ここまで来られたのは、応援してくれたみなさんのおかげです』
『でも、まだまだここで終わるつもりはないです』
記者の質問に、よどみなく答える。
完璧だった。トップアイドルとして、そして今日一日でさらに上へ行った存在として、何一つ崩れがない。
なのに僕だけは、その完璧な顔の裏に、さっき控室で向けられた重い感情を知っている。
それが、ひどく怖かった。
白須賀は記者陣の前で笑う。
そして、質問の合間にほんの一瞬だけ、こっちを見た。
気のせいみたいな一瞬。
でも、今度は間違えない。
あの目は、僕を見つけている。
明日香が小さく「あ」と漏らした。
静は何も言わなかったけれど、その沈黙が逆に全部を察している感じだった。神代と二階堂も、さすがにその一瞬の視線の意味までは分かったらしい。
僕はそこで、ようやく理解する。
今日のライブは終わった。
白須賀沙也加は、間違いなく国民的アイドルとしての名前を大きく上げた。
でも、その成功の先にあるものは、きっともっと静かで、もっと個人的で、もっと逃げ場がない。
※ ※ ※
家に帰り着いたのは、日付が変わる少し前だった。
テレビでは、すでに白須賀のライブ速報が流れていた。
“歴史的成功”“国民的アイドルの名を証明”“初単独東京ドーム、大熱狂”――どの見出しも、今日の光景を思えば大げさには見えない。
スマホも通知だらけだった。
学校のグループチャット。ショートドラマ経由で僕を認識したらしい何人かからのフォロー申請。クラスメイトの「お前いたよな?」みたいな雑なメッセージ。
そして、その全部の一番上に、白須賀からのメッセージが一件だけ。帰り際に白須賀のマネージャー経由で玲音や白須賀の連絡先を交換していた。半ば無理やり気味ではあったけれど。
『今日はちゃんと見ててくれてありがとう』
短い。
短いのに、その一文の下に見えない続きを勝手に想像してしまう自分がいた。
ありがとう、だけで終わる人じゃない。
今日のあの控室で、もう十分分かった。
僕はスマホを握ったまま、ベッドに座り込む。
ライブの熱。
東京ドームの歓声。
白須賀の笑顔。
唇に残る感触。
“次はちゃんと沢渡くんも私のものにする”という静かな宣言。
全部がまだ、頭の中でうまく整理できていない。
でも、一つだけ分かることがあった。
明日から、多分また全部が変わる。
白須賀沙也加は、もう“学校にいる有名アイドル”では済まない場所へ行った。
そして、その一番近くで見てしまった僕も、多分、前みたいなままではいられない。
スマホがもう一度だけ震える。
今度は白須賀から、追い打ちみたいにもう一件。
『忘れてないよね?』
たったそれだけだった。
けれど、その短さが一番怖い。
僕はしばらく画面を見つめたまま、返信もできずに固まっていた。
東京ドームの熱が冷めるどころか、むしろここから先のほうが、もっと厄介に燃え広がっていく気しかしなかった。
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