今度はあなたを私のものに
そして多分。
ここから先は、ライブの成功とは別の意味で、もっと取り返しがつかない。
そんな予感を抱えたまま、僕はスタッフのあとを追って、東京ドームの裏通路を歩いていた。
さっきまで客席にいたはずなのに、裏へ回ると空気の質がまるで違う。
撤収準備の音、飛び交う短い指示、通路を急ぐ関係者たち。どこもかしこも忙しないのに、その忙しさの中心だけは、たった一つの名前で出来ているのが分かる。
白須賀沙也加。
今夜、東京ドーム単独公演を成功させたトップアイドル。
いや、もう“トップアイドル”だけじゃ足りないのかもしれない。さっきのライブを見たあとだと、“国民的”という大げさな言葉ですら、妙に現実味を帯びて聞こえてしまう。
通路を曲がるたび、スタッフの会話が耳に入る。
「ニュースの速報、もう出てます」
「配信同接、かなり跳ねてます!」
「終演後コメント、十分後で押さえます!」
全部、白須賀の話だった。
それなのに、その渦の真ん中にいるはずの本人が、わざわざ僕を呼んだ。
何を言われるのか分からない。
分からないまま、案内された先は、さっきまでの喧騒から少しだけ離れた控室エリアだった。
「こちらです」
スタッフが一つの扉の前で止まる。
軽くノックをしてから、「沢渡様をお連れしました」と告げる。
中から返ってきたのは、聞き慣れたはずなのに、今は少しだけ違って聞こえる声だった。
「ありがとう。入れて」
スタッフが扉を開ける。
僕は一度だけ息を整えてから、中へ入った。
※ ※ ※
控室は広かった。
さすが東京ドームのメイン出演者用というべきか、ソファも鏡台も置かれていて、照明もやけに明るい。けれど、その空間の印象を決めているのは内装じゃなかった。
白須賀沙也加、その人自身だった。
ライブ衣装のまま、鏡の前の椅子に座っている。
髪はまだきっちり整えられていて、メイクも落としていない。ステージの光を受けるための顔が、そのまま近い距離にある。
なのに、ライブ中に見たあの圧倒的な完成度とは少し違っていた。
肩で息をするほどではない。
でも、目元の力がわずかに緩んでいて、張り詰めていた糸だけが切れずに残っているような顔だった。
「来てくれたんだ」
白須賀は僕を見るなり、そう言って少しだけ笑った。
「呼ばれたから」
「ふふっ。そうだよね」
その笑い方が、ライブ中のアイドルの笑顔じゃない。
学校でも、屋上でも、たまに見せるもっと私的なやつに近かった。
僕がどうしていいか分からず立っていると、白須賀は鏡の前から立ち上がる。
衣装の裾が揺れる。
近い。客席から見ていた時とは違って、こうして同じ空間にいると、さっきまであの広いドーム全体を支配していた人間が、本当に同じ人なのだと理解するのに少し時間がかかる。
「お疲れさま、とか言ってくれないの?」
「……お疲れさま」
「うん」
白須賀は、その一言だけで少し満足したみたいに目を細めた。
それから、少しだけ首を傾ける。
「どうだった?」
「何が」
「ライブ」
その質問に、僕は少し黙る。
感想なんて、いくらでもある。
すごかった。綺麗だった。圧倒された。遠かった。近かった。意味が分からないくらい人を惹きつけていた。
でも、どの言葉も少し違う気がした。
「……なんか」
「うん」
「ちゃんと、白須賀さんだった」
我ながら語彙が足りないと思う。
もっと言いようがあるはずなのに、こういう時に限って簡単な言葉しか出てこない。
でも白須賀は、その一言を聞いた瞬間、少しだけ息を止めたように見えた。
「そっか」
「うん」
「それ、たぶん一番うれしいかも」
その声は、思っていたよりずっと小さかった。
白須賀はそこでソファの端へ腰を下ろし、僕にも目で向かいの席を促す。
座るしかなくて、僕は少し距離を取って向かいへ座った。
控室の外ではまだ人の動く音がする。
でも、この部屋だけは妙に静かだった。
「最後のMC、見てたよね」
白須賀が言う。
「見てた」
「バラードも」
「うん」
「……あそこね」
そこで白須賀は、自分の胸元へ手を当てた。
「ほんとは、ちょっとだけ危なかった」
「危ないって?」
「泣きそうだった」
その答えがあまりに率直で、僕はすぐに返事ができなかった。
「変だよね。東京ドーム単独、あんなに大成功して、ちゃんと立って、ちゃんと歌えて、みんなもすごいって言ってくれてるのに」
白須賀は少しだけ笑う。
でも、その笑みは弱かった。
「最後の曲の前で、急に、ああここまで来たんだって思ったら、喉の奥が変になって。もしあの時、ちょっとでも気を抜いてたら、多分崩れてた」
「……でも歌えてた」
「歌えたよ」
白須賀はそう言って、僕を見た。
「だって、沢渡くんいたし」
心臓が、変な音を立てる。
「いや、それは……」
「ほんとだよ」
被せるように言われた。
「最初のMCの時も、途中で視線が向いた時も、最後の曲の前も、ちゃんと見つけてたから」
「あの広さで?」
「うん」
白須賀は何でもないみたいに言う。
でも、それは全然何でもない話じゃない。
「見つけるって決めてたもん」
その一言の重さに、僕は一瞬だけ言葉を失う。
「東京ドーム、すごく広かった。怖かったし、途中で何回か、本当に一人になりそうな感じもした」
白須賀の声は静かだった。
でも、その静けさの奥にあるものだけは、どんどん濃くなっていく。
「でも、沢渡くんが客席にいるって分かってたから、平気だった」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない」
今度は、はっきりと言い切られる。
「玲音にも、スタッフさんにも、たくさん助けられた。今日のライブが出来たのは、私一人の力じゃない。でもね」
白須賀はそこで、少しだけ身を乗り出した。
「最後に“白須賀沙也加のままで立ってていい”って思えたのは、沢渡くんが見てるって分かった時だった」
距離が近い。
近いのに、動けない。
白須賀の目は真っ直ぐだった。
ライブ中に何万人へ向けていた視線より、今のほうがずっと逃げ道がない。
「今日、分かったの」
「……何を」
「私、もう、軽い気持ちじゃない」
その言葉は、あまりにも静かに落ちた。
でも、重さだけがはっきりしていた。
「最初は、ほんとにちょっと面白そうって思っただけだった。放っておけないなとか、もっと話したいなとか、それくらい。でももう違う」
白須賀は一度だけ息を吸う。
「今日みたいに、何万人に見られて、何万人に名前を呼ばれて、それでも最後に一番見つけたいのが沢渡くんなの、普通じゃないでしょ」
「白須賀さん」
「うん」
「今、かなり疲れてるよね」
思わずそう返してしまったのは、多分、少しでも話をずらしたかったからだ。
でも白須賀は、少しだけ笑っただけだった。
「疲れてるよ。すっごく」
「なら、今のは」
「本音」
逃がしてくれなかった。
白須賀はソファから立ち上がる。
そして、僕の前まで来る。
客席から見ていた時には、あんなに大きかった人が、今は手を伸ばせば触れられる距離にいる。
けれど実際には、その距離の近さ以上に、感情の近さのほうが危険だった。
「沢渡くん」
「……なに」
「今日、私、国民的アイドルになれたと思う」
その言葉に、僕は少しだけ息を止めた。
自分でそう言うのか、と最初は思った。
でも今の白須賀なら、それを口にしてもいい気がした。さっきのライブは、そのくらいのものだった。
「でもね」
白須賀の声が、さらに一段低くなる。
「それでも足りない」
「足りない?」
「うん。だって、みんなに届いても、沢渡くんに一番残りたい」
その言葉が、やけに真っ直ぐ胸へ入ってくる。
「今日だって、あんなにたくさんの人が私を見てくれて、名前を呼んでくれて、好きって言ってくれてるのに。それなのに私は、終わった瞬間に一番最初に沢渡くんの顔が見たかった」
白須賀はそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「ねえ、これって、かなり重いでしょ」
自覚はあるらしい。
あるのに、止める気は一切なさそうだった。
「……否定はしない」
「でしょ?」
白須賀は満足そうに笑う。
その笑みが、さっきまでのライブの余韻と混ざって、ひどく綺麗で、ひどく危うい。
「私ね、今日、客席見ながら思ったの。ああ、これからもっと有名になるなって。もっと見つかるなって。もっといろんな人に欲しがられるんだろうなって」
それは、多分事実だ。
今夜のライブを見たら、そう思わないほうが難しい。
「でも、それって嫌なんだよね」
「なんで」
「だって、私のことを一番に見つけてほしい相手が、もう決まってるから」
そこまで言うと、白須賀は少しだけ屈んで、僕と目線を合わせた。
「沢渡くんだけ」
もう、冗談では済まない。
逃げたい。
でも、多分ここで目を逸らしたら、もっとまずいことになると分かってしまう。
「今日で終わりじゃないよ」
白須賀の指先が、ゆっくり僕の袖へ触れる。
「東京ドームが成功して、国民的って言われて、これからもっと忙しくなっても、私は沢渡くんを手放す気ないから」
「手放すって、別に」
「あるよ」
また、被せるように言われる。
「今までだってそうだったでしょ。天雨さんも、副会長さんも、玲音も、明日香ちゃんも、静ちゃんも。みんな少しずつ沢渡くんのこと見つけてる。でも、今日で多分、もうその程度じゃ済まなくなる」
その名前の並べ方に、ぞくりとする。
全部、白須賀は見ていたのだ。
分かっていたのだ。
その上で、今ここで、こんなふうに言っている。
「だから、先に言っとくね」
白須賀は、ほんの少しだけ笑う。
その笑みは柔らかいのに、言葉だけが異様に重かった。
「私、もう譲れないから」
次の瞬間、白須賀の顔が近づく。
考えるより先に、唇へ柔らかい感触が触れていた。
ほんの一瞬だった。
でも、時間にすればそれだけなのに、頭の中ではひどく長く感じた。
離れたあと、僕は言葉を失ったまま固まるしかなかった。
白須賀はそんな僕を見て、少しだけ満足したように目を細める。
「……印つけた」
声が出ない。
白須賀はもう一度、今度は触れるだけじゃなく、じっと僕を見つめる。
「沢渡くん」
「……」
「今日、私、東京ドームを自分のものにしたよ」
その言葉に、さっきのライブの光景が一気に蘇る。
「だから次は、ちゃんと沢渡くんも私のものにする」
ひどく静かな声だった。
でも、その静けさの奥にあるものは、東京ドームの歓声よりずっと怖かった。
「軽い気持ちじゃないって言ったよね」
白須賀は袖から手を離さない。
「これからもっと有名になる。もっと遠く見えるようになる。でも、沢渡くんにとってだけは、私が一番近くにいるから」
それは宣言だった。
お願いじゃない。確認でもない。もう、そうすると決めた人の声音だった。
「他の子に優しくしすぎないで」
最後の一言が、妙に柔らかい。
でも、その柔らかさが逆に危ない。
「今日の私を見たあとで、それでも他の子を見てるなら……多分、私ほんとに嫌なことするよ」
言い終えたあと、白須賀は少しだけ笑った。
冗談っぽく聞こえるように笑っているのに、全然冗談に聞こえない。
むしろ、その笑顔で言えてしまうところが一番怖い。
控室の外では、まだ人が行き交う音がしている。
今夜、東京ドームは大成功した。白須賀沙也加は、間違いなく国民的アイドルとしての名前を一段大きくした。
なのに、この部屋の中で僕が向き合っているのは、その眩しさよりずっと個人的で、ずっと重い感情だった。
白須賀は最後に、もう一度だけ僕の唇へ視線を落とす。
「忘れないでね」
その声音は、さっきのキスよりずっと深く刺さった。
「東京ドームの最後に、私が一番残したかったのは沢渡くんだから」
そう言って、白須賀沙也加は静かに笑った。
その笑顔は、ステージの上で何万人を虜にした国民的アイドルのものだった。
同時に、たった一人へだけ異様に重い執着を向ける、どうしようもなく危うい女の子の顔でもあった。
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