ライブ当日
東京ドーム当日。
朝から空はよく晴れていて、その青さが逆に現実味を薄くしていた。
水道橋駅を出た瞬間、まず目に入ったのは人の流れだった。
グッズ売り場へ向かう長い列。ペンライトやタオルを肩から下げたファンたち。駅前の大型ビジョンには、白須賀沙也加のライブロゴと開演時刻が何度も映し出されている。
学校のショートドラマが流れた時とは比べものにならない。あれが少しだけ“遠い世界に触れた”くらいの出来事だったとすれば、今日は最初から最後まで、白須賀沙也加という名前だけで出来上がった巨大な現実が、街ごとそこに広がっていた。
僕は改札前で足を止めて、思わずドームを見上げた。
でかい。
何度見ても、その感想しか出てこない。
しかも今日は、数日前のリハーサルとは違う。外にいる全員が、これからあの場所で“白須賀沙也加のライブが始まる”ことを知っていて、その期待だけで空気が膨らんでいる。
関係者入口へ向かう途中、ファンの会話が耳に入った。
「今日、絶対泣く気がする」
「ドーム単独とか夢すぎる」
「沙也加ちゃん、絶対やってくれるでしょ」
信じられている。
その信頼の量だけで少し怖くなる。あれだけの期待を、一人で受け止めるのか。白須賀は。
※ ※ ※
関係者入口の空気は、外の熱気とはまた違う意味で張り詰めていた。
スーツ姿のスタッフ、トランシーバー越しの短い指示、慌ただしく運ばれる機材ケース。パスを見せて中へ入ると、すぐに見覚えのある顔が目に入った。
「お、ほんとに来たんだ」
神代蓮だった。
今日は落ち着いたジャケット姿で、ショートドラマの現場にいた時よりずっと真面目な顔をしている。隣には二階堂蒼真もいる。こっちはきっちりしたシャツ姿で、相変わらず無駄に整っていた。
「……来ました」
「そりゃ来るよな。あの白須賀さんの初単独だし」
神代はそう言って軽く笑ったけれど、目の奥にあるのは浮ついた熱じゃなかった。今日は“観に来た側”の真剣さのほうが前に出ている。
二階堂も似たようなものだった。
「昨日の業界向け試写映像見たけど、相当仕上げてきてるらしい」
「見たんですか」
「最後までは見てない。本番をちゃんと観たいから」
その言い方に、妙な緊張が混じっていた。
この二人は、ショートドラマの時から白須賀へ惹かれていた。けれど今日は、軽い気持ちで来ているわけじゃないらしい。むしろ、圧倒的なものを見せつけられる覚悟をしてきた顔に近い。
「裕二くん!」
明るい声が飛んできて、僕は反射的にそちらを見た。
吉良明日香が手を振っていた。
白いブラウスに薄いカーディガン、動きやすそうなデニム。ラフな格好なのに、金髪の華やかさだけでやたら目立つ。少し後ろには、西条静もいた。落ち着いた黒のワンピースに長い髪を片側へ流していて、今日も清楚なくせに近寄りがたい。
「吉良さん」
「え、来たんだ! よかった、ちょっと安心した!」
「安心?」
「だって沙也加ちゃん、今ぜったい張ってるじゃん。そういう時、裕二くんいたほうがいい気がして」
その言い方があまりに自然で、僕は返事に困った。
静は静で、少し細い目をこちらへ向ける。
「あなた、思っていたより顔色がよくないわね」
「放っておいてください」
「無理よ。今日はたぶん、あなたも巻き込まれる側だから」
相変わらずだった。
それが妙に西条さんらしい。
その少し離れた通路側に、玲音の姿も見えた。
玲音は単独で関係者席の案内を受けていて、こちらへ軽く視線を寄越しただけで近づいてはこない。明日香や静たちとも、目が合えば会釈するくらいで、一線を引いた距離のままだ。
会ったことはないのだろう。
テレビ越しに顔を知っていても、気安く混ざるほどの距離ではない。その感じが、かえって自然だった。
※ ※ ※
客席へ案内されると、そこはもう別世界だった。
リハーサルの時とは違う。客席はすでにかなり埋まっている。開演まではまだ時間があるはずなのに、ペンライトの色がゆっくり揺れ、ステージへ向かう視線だけで熱が伝わってくる。巨大な空間なのに、その熱が散らない。むしろ広さがあるぶんだけ、期待が圧縮されてステージ側へ集まっているようだった。
「……やばいね」
明日香が小さく言う。
その顔には、いつもの勢いとは違う純粋な圧倒があった。
二階堂は無言でステージ構成を眺めている。
神代は笑う余裕を少し失ったまま、「ここを一人で持つのか」と低く呟いた。
静は静かなまま、客席の色と動きを見ている。その横顔から感情は読みづらいけれど、目だけは明らかに真剣だった。
玲音は少し離れた通路寄りの席に座り、腕を組んで舞台全体を見ていた。観客というより、同業者として“何が起きるか”を見に来ている顔だ。
僕はただ、自分の席で前を見る。
ドーム。
ここに、もうすぐ白須賀が出る。
学校で笑っていた人と、この巨大な空間の真ん中へ立つ人が本当に同じなのだという現実が、開演直前になって改めて重くのしかかってきた。
照明が落ちる。
一瞬の暗転。
次の瞬間、床下からせり上がるような重低音が、ドーム全体を震わせた。
※ ※ ※
オープニング映像が流れる。
巨大スクリーンいっぱいに白須賀沙也加の顔が映し出されるたび、歓声が波みたいに返る。名前を呼ぶ声が混ざり、まだ本人が出てきてもいないのに、客席の熱量はすでに限界近かった。
そして、センターステージが光に包まれる。
その真ん中に立っていたのは、学校で見ていた白須賀とは、やっぱりまるで違う存在だった。
白を基調にしながら、光の角度で金にも銀にも見える衣装。細かな装飾がライトを拾うたび、体の動きに合わせて光が散る。髪は高い位置で結われ、少し動くだけで揺れる飾りが視線を持っていく。
そして、目だった。
客席を一望したその一瞬で、“ここはもう私のライブだ”と空間に言い渡したみたいな目をしていた。
歓声が爆発する。
「すっご……」
明日香が思わず漏らす。
神代は口を開きかけて閉じた。二階堂も視線を逸らせない。静はスクリーンではなく、本人だけを見ている。玲音は少しだけ顎を引き、ほんの僅かに口元を緩めたように見えた。
歌が始まる。
最初の一曲から、白須賀は一切引かなかった。
大きく見せようとしているわけじゃない。最初から、この広さへ届く熱量を前提に体が組み上がっている。
ただ綺麗なだけじゃない。
ただ上手いだけでもない。
歌の強さ、ダンスの抜き、目線の飛ばし方、その全部が“何万人の客席に届く”ことを前提に作られている。
でも、それ以上に人間臭かった。
完璧なのに、完璧に収まりすぎていない。
熱が前へ出る瞬間がある。煽りが予定調和をほんの少しだけ飛び越える瞬間がある。
そのたびに客席が揺れる。
――“正しい白須賀沙也加”じゃなくて、“白須賀沙也加だから見たい”を前に出す。
以前、東京ドームの通路で白須賀が掴みかけていたものが、今、ちゃんと形になっていた。
神代が小さく笑う。
「……これは、狙うとかそういう話じゃないな」
二階堂も短く息を吐いた。
「最初から、立ってる場所が違う」
それは半ば敗北宣言みたいなものだった。
でも、悔しさだけじゃなくて、純粋な納得もそこにはあった。
明日香は目をきらきらさせたまま、でもどこか真剣に呟く。
「沙也加ちゃん、ほんとにアイドルなんだ」
変な言い方だ。
でも、その意味はよく分かる。テレビで見る“有名人”じゃなく、今ここで何万人をまとめて魅了する存在として、本当にアイドルだった。
静は少しだけ目を細める。
「……綺麗なのに、温度が低くない」
短い感想。
でもそれは、多分彼女なりのかなり高い評価なのだろう。
玲音は何も言わない。
ただ、曲の切れ目で白須賀がマイクを持ち替えた瞬間、ほんの少しだけ息を吐いた。昨日までの“綺麗すぎるだけの白須賀”ではないと、玲音も分かったのだと思う。
そして僕は、ただ見ていた。
すごい、という言葉では足りない。
遠い、で片づけるのも違う。
今目の前にあるのは、学校で見ていた白須賀の延長じゃない。けれど完全に別人でもない。あの人が、あのまま大きくなった先の姿だった。
そのことが、妙に胸に来る。
※ ※ ※
三曲を終えたあと、ドームの照明が少しだけ落ちた。
センターステージに、白須賀が一人残る。
歓声が少しずつ収まり、何万人もの人間が、次に彼女が何を言うのかを待つ。
ここだ、と僕は思った。
リハーサルで何度も止まっていた場所。
歌やダンスではなく、一人の言葉で東京ドームを自分のものにしなければならない時間。
白須賀はマイクを握り、少しだけ客席を見渡した。
その視線が、一瞬だけ関係者席のこちら側を掠めた。
気のせいかもしれない。でも、僕にはそうは思えなかった。
「……やっぱり、広いです」
最初の一言で、客席が少しだけ笑う。
その笑いが返ってきた瞬間、白須賀の肩から何かが抜けたのが分かった。
「今日こうして立ってみて、改めて思いました。東京ドームって、夢みたいな場所だなって」
言葉は綺麗だ。
でも、台本っぽくない。ちゃんと彼女の呼吸で置かれている。
「でも、夢みたいな場所って、たぶんちょっと怖い場所でもあるんです」
客席が静かになる。
明日香が小さく息を呑み、神代も二階堂も黙って前を見た。静の横顔は静かなままなのに、目だけは強くステージへ固定されている。
「私、今日ここに立つまで、何回も考えました。ちゃんと届くかな、ちゃんと最後まで持つかなって」
その正直さが、変に生々しくなく、むしろまっすぐ客席へ刺さっていく。
「でも、こうしてみんなの顔を見たら、怖いだけじゃなくなりました」
白須賀はそこで、少しだけ笑った。
「私、今日ここに立てて、ほんとによかったです」
その瞬間、歓声が爆発した。
何かを煽ったわけじゃない。
でも、今の一言は、何万人の客席にちゃんと届いたのだと分かる熱量だった。
僕は思わず息を止める。
そうか。
これが、あの通路で白須賀が掴みかけていたものなのか。
トップアイドルとして正しく振る舞うんじゃなく、白須賀沙也加のまま、怖さも嬉しさも抱えて前へ出ること。それが、東京ドームではこんなふうに返ってくる。
玲音はそこで、ようやくほんの小さく笑った。
誰にも見えないくらいの笑みだったけれど、そこに納得があるのは分かった。
明日香は、目を潤ませる寸前みたいな顔で呟く。
「……ずるい。こんなの好きになるじゃん」
その声が、アイドルとしての意味なのか、別の意味なのか、本人にもまだ分かっていない感じだった。
静は静かに息を吐く。
「これが、白須賀沙也加なのね」
神代と二階堂は、もう軽い熱などどこかへ飛ばしていた。
自分たちが“狙う側”の気分で来ていたことがどれだけ甘かったか、思い知らされたんだろう。
そして、その全部を背負ってなお、白須賀はステージの真ん中で笑っていた。
綺麗で、強くて、それでいて遠すぎない。
そこに立っているのは、やっぱり学校で笑っていたあの人なのだと思わせる何かがある。
でも、その中に、あの日までとは違う重さが混ざっているのを、僕だけは知っている気がした。
このライブは、まだ始まったばかりだ。
なのにもう、白須賀沙也加は今夜、自分の名前を一段階上の場所へ押し上げるのだと分かってしまう。
そして多分、その頂点みたいな瞬間のあとで、彼女はまたこちらを見る。
そんな予感だけが、妙に確信めいて胸に残った。
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