完成するトップアイドル
東京ドーム本番まで、あと一日。
その事実は、教室の中では思っていたより静かに浸透していた。
誰かが大声で話題にするわけではない。
けれど、朝のホームルームで担任が白須賀の公欠を読み上げたあと、一瞬だけ空気が止まる。二時間目が終われば、廊下の窓際でスマホを見ていた女子が「もう明日だね」と小さく言う。休み時間のたびに、誰かしらが芸能ニュースの見出しを見つけては、少しだけ教室の温度が上がる。
隣の席は、今日も空いていた。
もう何日も見ているはずなのに、朝一番に教室へ入るたび、視界がそこへ吸い寄せられる。
そのたびに、自分でも面倒だと思う。白須賀が学校を休むのは当然だ。頭では分かっている。東京ドームの単独公演なんて、普通の高校生みたいな顔をしながら並行できるものじゃない。
でも、頭で分かっていることと、そこに誰もいない現実を当たり前として受け入れることは、少しだけ違った。
昼休み。
いつものように屋上へ上がると、今日は天雨美鈴がすでにベンチへ座っていた。
僕の気配に気づいても、すぐには何も言わない。
ただ、少しだけ端へ詰める。その動作だけで、もう僕が隣に座ることを前提にされているのが分かってしまう。
「……明日だね」
僕が腰を下ろして少ししてから、天雨が言った。
「うん」
「東京ドーム」
それだけの単語なのに、妙に重かった。
風が強い。
金網の向こうの空は高くて、こんな何でもない学校の屋上からでも、どこか別の巨大な場所へ繋がっているみたいに見える。
「今日、落ち着かないでしょ」
天雨は前を向いたまま続ける。
「そんなに分かる?」
「分かるよ」
即答だった。
「朝から、ノートの同じページをずっと開いてたし。国語の時間、先生に当てられる前に全然気づいてなかったし。あと、三回くらい隣見てた」
「数えるのやめてくれない?」
「数えてるわけじゃない。目につくの」
静かな口調なのに、逃げ道がない。
天雨は少しだけ膝の上で指を組み、それから言った。
「明日、白須賀さんを見に行くなら」
「うん」
「“すごかった”だけで終わらせないで」
その言い方に、少しだけ聞き覚えがあった。
前にも似たことを言われた気がする。けれど今日は、その意味が少し違って聞こえる。
「なんで」
「帰ってきたあと、沢渡くんがそういう顔で言ったら、たぶん私すごく嫌だから」
天雨はそこで、ようやくこちらを見た。
静かな目だった。
でも、その奥にあるものだけは少しも静かじゃない。
「“遠い人だった”とか、“やっぱりすごい世界だ”とか、そういうので納得しないで」
「……納得って」
「だって、そうやって自分と切り離したら、白須賀さんはそれで終わるでしょ」
それは天雨にしては珍しく、感情が前へ出た言い方だった。
「今の白須賀さん、多分、誰より一人で立ってる。だから沢渡くんが明日見るべきなのは、届いた結果じゃなくて、その前の顔」
僕はしばらく黙った。
天雨は普段、自分の気持ちを整理してから話す。
けれど、こういう時だけは別だ。整理しきれないまま、でも本音だけは落とさずに投げてくる。
「……分かった」
それしか言えなかった。
天雨はほんの少しだけ目を伏せて、それから小さくうなずく。
「うん。ならいい」
そう言って弁当箱を開く横顔はいつも通り静かだったが、その耳のあたりだけが少しだけ赤く見えた。
※ ※ ※
放課後、帰ろうとしたところで柊綾乃先輩に呼び止められた。
「沢渡くん」
今の僕は、誰かに名前を呼ばれるだけで少し身構えてしまう。
ただ、柊先輩はそんなこちらの反応を見越したみたいに、先に言った。
「変な話ではないから安心して」
「最近その前置きがないと不安なんですけど」
「それは少し気の毒ね」
気の毒と思っている顔ではなかった。
柊先輩は廊下の窓際へ少し寄ると、クリップボードを閉じた。
「明日、行くのでしょう」
「……はい」
「なら、一つだけ」
彼女の声は淡々としていた。
でも、だからこそ言葉の輪郭がはっきりしている。
「頑張って、は簡単に言わないほうがいいわ」
僕は少しだけ目を瞬かせた。
「なんでですか」
「頑張っている人に、もう十分すぎるくらい頑張っている人に、それ以上を上乗せする言葉になることがあるから」
窓の外では、運動部の掛け声が遠く響いている。
その平凡な放課後の音と、柊先輩の言葉の重さが妙に噛み合わなかった。
「白須賀さんは、多分そういうタイプよ。平気そうに見えるほど、内側では止まらない」
「……そうかもしれません」
「だから、もし明日、あなたがあの人に何か言うなら」
柊先輩はそこで一度だけ僕を見る。
「もう十分だ、とか。ちゃんと届いている、とか。そういう“今の彼女を認める言葉”のほうがいい」
それは、柊先輩らしい実務的な助言だった。
感情論ではなく、きちんと観察した上で出した答えという感じがする。
「先輩、白須賀さんのこと、そんなに見てたんですね」
「見えてしまうのよ」
少しだけ苦笑するように言う。
「目立つ人だから。……それに、目立つ人が崩れかける時の空気は、慣れていない人ほど見落とすけれど、私はわりと気づくもの」
なるほど、と思った。
柊先輩は人の感情を派手に読むタイプではない。けれど、崩れ方の予兆みたいなものにはむしろ敏感なのだろう。
「まあ、あなたに全部背負えと言っているわけではないから」
最後にそう付け足して、柊先輩は歩き出す。
「ただ、変に遠くから見上げるだけの客にはならないことね」
それだけ言い残して、彼女は階段のほうへ消えていった。
僕はしばらくその場に立ったまま、廊下の窓へ映る自分を見た。
遠くから見上げるだけの客。そうならないでいろ、と、天雨も柊先輩も形を変えて言っている。
それは多分、思っているより難しいことなのだろう。
※ ※ ※
その夜。
白須賀沙也加は、東京ドームのメインステージ中央に立っていた。
前日最終リハーサル。
客席は当然空だ。けれど照明も映像も、本番にほぼ近い形まで組み上がっている。もう“ただの確認”ではない。明日の景色を、今日ここで一度体に通しておくための時間だった。
イヤモニの調整。
花道の走り方。
早着替えの秒数確認。
本編終盤の煽りと、アンコールへの繋ぎ。
やることは山ほどある。全部大事で、全部神経を使う。
それでも、昨日までとは少し違っていた。
正しくやろうとするほど、自分が死ぬ。
そのことを一度、ちゃんと痛感したからだ。
歌の入りで迷ったら、上手く聞こえるほうではなく、今の自分が前へ出るほうを選ぶ。
MCで言葉が整いすぎたら、一度息を吸って、自分の声に戻す。
完璧に見せるより、白須賀沙也加として立つこと。そこだけは何度も何度も確認した。
けれど、本番前日の最後の最後で、別の壁が立ちはだかった。
アンコール明けのバラードだった。
セットリストの一番最後。
演出が剥がれ、照明も絞られ、東京ドームの広さの中で“ただ歌だけが残る時間”。その曲は今回のライブで一番大事な位置にあると、白須賀自身も分かっていた。
だからこそ、失敗した。
一度目。
Aメロの二行目で、息の置き方を間違えた。
二度目。
サビ前で感情が先に込み上げて、音程が揺れた。
三度目。
最後の一節で、客席を想像した瞬間に喉が閉じる。
「……ごめんなさい、もう一回お願いします」
言った自分の声が少しだけ掠れている。
演出席も、さすがに静かだった。
白須賀がここまで引っかかるのは珍しい。歌えないのではない。むしろ歌えるからこそ、余計に“今のは違う”と本人が分かってしまう。
マイクを持つ手が少し冷たくなる。
怖い。違う種類で。
ドームの大きさが怖かった数日前とは別の意味で、今は“この曲だけは綺麗に済ませたくない”ことが怖い。
歌い上げればいいわけじゃない。
でも、崩しても違う。
心の奥にあるものを見せたいのに、それをどこまで出せば客席へ届く形になるのかが、一瞬だけ分からなくなった。
「一回、止めようか」
演出席から声がかかる。
責める口調ではない。けれど、その優しさが逆に胸に刺さる。
白須賀はマイクを下ろした。
悔しい。
ここまで来て、最後の最後でこんなふうに立ち止まるなんて。
努力が足りないわけじゃない。準備もしてきた。なのに、肝心なところで“自分の心”の扱いだけが一番難しい。
ステージの端まで下がる。
水を一口飲む。
そして、客席を見上げた。
空っぽの東京ドーム。
まだ誰もいない。誰もいないのに、明日ここは埋まる。名前だけで、期待だけで、白須賀沙也加を見たいという何万人かで。
その景色を想像した瞬間、ふいに思い出したのは、玲音の厳しい指摘でも、演出家のアドバイスでもなかった。
――もう十分だ、とか。ちゃんと届いている、とか。
言われたことのない言葉を、なぜか頭が勝手に探す。
そしてその次に浮かんだのは、やっぱり沢渡裕二だった。
大したことは言わない。
上手いことも言わない。
でも、こちらが強くあろうとする時ほど、不思議なくらい“今ここにあるもの”だけを見てくる。
もし今、あの少し鈍い顔でここにいたら。
多分、完璧に歌えとか、失敗するなとか、そんなことは絶対に言わない。
たぶん、白須賀が今この瞬間に何を怖がっているかだけを見て、それをそのまま認めるようなことを言う。
「……ほんと、ずるい」
小さく漏れた声は、誰にも届かない。
白須賀はマイクを握り直した。
怖い。
でも、その怖さごと最後の一曲に乗せるしかないのだと、今は少しだけ分かる。
ステージ中央へ戻る。
照明が再び絞られる。
「もう一回、お願いします」
その声はさっきより静かで、でも芯があった。
音が流れる。
白須賀は目を閉じずに前を見る。
今度は、上手く歌おうとは思わない。
明日ここへ来る人たちへ、最後に何を残したいのかだけを考える。ありがとうでも、憧れでも、綺麗な約束でもない。その全部を通った先にある、“白須賀沙也加がここに立てて本当に嬉しい”という、ひどく個人的な感情だけを置いていく。
Aメロ。
今度は揺れない。
Bメロ。
息を抜く場所が自然に決まる。
サビ前。
怖さは消えていない。けれど、そのまま声に混ざって前へ出る。
最後の一節を歌い終えた瞬間、ドームの静けさが少しだけ変わった気がした。
歓声なんてない。拍手もない。なのに、届いた、と分かる沈黙がある。
演出席から、ゆっくりと拍手が一つ鳴った。
続けて、別のスタッフが息を吐く。
「……今のだ」
短い一言だった。
でも、それだけで十分だった。
白須賀はその場でしばらく動けなかった。
歌えた。やっと。しかも、今度はただ上手くいったのではなく、“このライブの最後に置きたいもの”として歌えた気がした。
マイクを胸元へ下ろしながら、白須賀は客席をもう一度見上げる。
明日、ここが埋まる。
怖い。
でももう、怖いだけじゃなかった。
「……見ててよね」
小さくそう呟く。
誰に向けた言葉か、自分でももう隠せない。
学校を休んで、教室から離れて、普通の日常からも切り離されて、それでも頭のどこかに残り続けている人がいる。
沢渡裕二。
あの鈍いくせに、欲しい時に欲しいところへ来る男の子。
明日、あの客席のどこかにいる。そう思うだけで、さっきまでの張り詰め方とは別の熱が胸の奥へ灯る。
「明日、絶対見つける」
白須賀は誰もいないドームで、静かに笑った。
トップアイドルとして、国民的として、東京ドームを成功させる。
もちろんそれは大前提だ。
でも、それだけじゃない。
明日、自分がここでどれだけ届くのか。どれだけ奪うのか。
その全部を、一人の男の子へも、ちゃんと突き刺す。
そう思った瞬間、白須賀の中の何かは、少しだけさらに重く、濃く形を持った。
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