ほんと、ずるいなぁ
東京ドーム本番まで、あと二日。
その数字が近づくほど、学校の外側の世界だけがどんどん先へ進んでいく気がした。
駅前の大型ビジョンには、白須賀沙也加のライブ告知映像が流れている。
コンビニの雑誌棚には、表紙違いの特集が何冊も並び、朝の情報番組では「単独ドーム直前」と何度も煽られる。街のどこへいても、“白須賀沙也加”という名前が普通の空気に混ざって流れてくる。
それなのに、学校の中だけは妙に静かだった。
少なくとも、表面上は。
教室の隣の席は今日も空いている。
朝のホームルームで担任が「白須賀は引き続き公欠だ」と短く言う。もうクラスの誰も露骨には騒がない。騒がないけれど、そのあとで何人かが無意識みたいにそちらを見るのは、やっぱり変わらなかった。
そして僕も、その一人だった。
我ながら面倒だと思う。
白須賀が学校を休むのは当然だ。東京ドーム単独公演なんて、普通の高校生活と並べてこなせる規模じゃない。分かっているし、頭では納得している。
でも、頭で納得していることと、隣の席が空いたままの日常に慣れることは、少しだけ別だった。
※ ※ ※
二時間目の休み時間。
僕が廊下側の窓を開けて空気を入れ替えていると、後ろから静かな声が飛んできた。
「今日、少し落ち着かないね」
天雨美鈴だった。
「何が」
「教室」
そう言って、彼女は僕の少し横へ並ぶ。
「静かなのに、誰も静かじゃない感じ」
言い得て妙だった。
たしかに今の教室はそうだ。白須賀がいなくなったぶん派手な動きは減ったのに、その代わり、みんな別の形で落ち着いていない。噂は薄れたのではなく、水の底に沈んで形を変えただけなのだろう。
「白須賀さん、明後日だよね」
「うん」
「……すごいね」
その“すごい”には、いろいろな意味が含まれていた。
規模の大きさ。
そこへ立つ白須賀自身。
そこまで行ってしまう人間が、同じ教室にいたという現実。
全部が混ざっているように聞こえる。
「昨日、特集見た?」
「少しだけ」
「私は最後まで見た」
天雨はそこで、ほんの少しだけ口元を引いた。
「内容はちゃんとよかった。すごく綺麗だったし、頑張ってるのも分かった」
「……でも?」
「でも、見てて嫌だった」
そこは、はっきりしている。
「何が」
「頑張ってる人を見るのが嫌なんじゃないよ」
天雨は視線を窓の外へ逃がしたまま言う。
「沢渡くんが、それを見て気にするだろうなって思ったから」
僕は一瞬だけ黙る。
この人は、たまに本当に容赦がない。
わざとじゃない顔で、心の真ん中に近いことをそのまま言う。
「別にそこまで」
「気にしてるよ」
「……そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
即答だった。
「沢渡くん、自分のことになると鈍いのに、自分が気にしてること隠すのだけは下手だから」
言い切られて、僕は何も返せなくなる。
天雨はそこで少しだけ僕を見る。
「ライブ、行くんでしょ」
「うん」
「なら、ちゃんと見てきて」
「またそれ」
「今度は、もっとちゃんと」
その声は静かだった。
でも、いつもより少し低い。
「白須賀さんがどれだけすごいか、じゃなくて。どれだけ無理してでも立とうとしてるか」
その言葉を残して、天雨は教室へ戻っていった。
背中はいつも通りまっすぐだったのに、最後の一言だけが妙に重く残る。
※ ※ ※
昼休み。
今日は珍しく、屋上へ行く前に柊綾乃先輩から声をかけられた。
呼び出しではない。たまたま廊下で会っただけだ。
それでも、今の僕は条件反射で少し身構えてしまう。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ」
「すみません」
「慣れたわね、その反応」
柊先輩は小さく息をついてから、手に持っていたクリップボードを閉じた。
「今朝、広報の先生と話していたの。白須賀さんの件で、学校へまた問い合わせが増えてる」
「取材とかですか」
「ええ。それと、ライブに合わせたコメント掲載依頼。あと、なぜか学校周辺の撮影許可申請まで来ていたわ」
「学校ぐるみみたいにしたいんですかね」
「したいのでしょうね。けれど、こちらとしては困るだけよ」
柊先輩らしい、少し冷えた答えだった。
「東京ドームは東京ドーム。白須賀さんの単独ライブであって、学校の催しではないもの」
その線引きは、きっぱりしていた。
たしかにその通りだ。白須賀が学校に在籍しているからといって、何もかもを学校と結びつけるのは違う。
「でも、逆に言えば」
柊先輩はそこで少しだけ視線を和らげた。
「彼女は今、本当に一人で背負っているのよ」
「……一人で」
「学校の後ろ盾じゃない。クラスの応援でもない。白須賀沙也加の名前だけで、ドームを埋めて、終演まで持たせて、帰らせる。それを求められている」
そう言われると、急に実感が増した。
“東京ドーム単独公演”という言葉が、少しだけ別の重みを持つ。
イベントの大きさではなく、一人で背負うものとして。
柊先輩は僕の顔を見る。
「あなた、行くのでしょう」
「はい」
「なら、余計な憧れだけで見ないことね」
「余計な憧れ?」
「ええ。すごい、綺麗、遠い人、そういう言葉だけで終わらせると、肝心なものを見落とすから」
言われたことは、天雨の言葉と少し似ていた。
角度は違うのに、同じ方向を指している。
「それと」
「はい」
「今日の屋上、たぶん風が強いわよ」
「……なんでそんなこと」
「天気予報を見たから」
最後だけ少し外した答え方をして、柊先輩は歩き出した。
その背中を見ながら、僕は思う。多分、先輩なりに“あまり一人で考え込みすぎるな”と言いたかったのだろう。
不器用さの種類が、みんな違う。
※ ※ ※
その頃。
白須賀沙也加は、都内のレコーディングスタジオで、マイクの前に立っていた。
本番二日前の今日は、ドーム公演用の最終音確認と、演出映像に合わせた歌パートの微調整が中心だった。朝から何度も同じフレーズを録り直し、その合間に別フロアでダンスの修正、戻ってきてまた歌。
気が遠くなるような繰り返しなのに、時計だけが容赦なく進む。
昨日までとは少し違う感覚がある。
追い込みそのものは、もっと前から始まっていた。
でも今は、ただ量で押し切る段階を越えて、“何を残して、何を削るか”の時間に入っている。
「沙也加ちゃん、今のサビ終わり、少しだけ伸ばしすぎ」
「はい」
「でも前よりいい。変に安全側へ逃げなくなった」
「……それ、褒められてます?」
「褒めてる褒めてる」
歌唱ディレクターの言葉は軽い。
軽いけれど、その一言で少しだけ肩の力が抜ける。
白須賀は今、自分の中に二つの顔があることを分かっていた。
一つは、トップアイドルとして“正しい”顔。
失敗しない。綺麗。強い。誰が見てもすごい。
もう一つは、もっと人間臭い顔。
怖い。足りない。届くか不安。それでも立ちたい。
今までは前者だけで走ろうとしていた。
でも東京ドームに必要なのは、多分、その二つを綺麗に分けることじゃない。両方を抱えたまま、白須賀沙也加として前へ出ることなのだ。
それが少しだけ見えてきたからこそ、今度は別の難しさが出てきた。
どこまで見せるか。
どこからは見せないか。
“本気”と“生々しすぎるもの”の境目を、全部自分で決めなければならない。
鏡の前で衣装合わせに入る。
今日の仮衣装は本番用にかなり近い。肩口に入る装飾、裾の軽さ、ライトが当たった時に返る光の量まで調整されている。
「沙也加ちゃん、歩いてみて」
スタイリストに言われて、白須賀はステージ移動を想定した歩幅で床を進む。
ヒールの高さ、布の揺れ、ターンした時の見え方。全部が“白須賀沙也加がドームの真ん中にいる”ために作られていた。
その瞬間、唐突に、変な気持ちになる。
ここまで整えられて、磨かれて、期待されて。
この状態の自分を、何万人が見に来る。
その中で、自分だけは“中身の揺れ”を知っている。
「……綺麗」
思わず漏れた声に、スタイリストが笑う。
「でしょ? 沙也加ちゃん用だもの」
その返事に、白須賀は少しだけ微笑んだ。
でも次の瞬間には、鏡の中の自分を見つめたまま、静かに考える。
綺麗であることは大事だ。
でも、綺麗だけでは勝てない。
そのことを、東京ドームが決まってから何度も思い知らされてきた。
ふと、テーブルの上に置いたスマホが光る。
学校の課題共有通知。味気ない文字列。いつもなら流してしまうそれに、白須賀は一瞬だけ目を留める。
教室。
空いた自分の席。
屋上。
そして、多分今も、あまり上手く気持ちを整理できていない顔で、でもちゃんとこっちのことを気にしているであろう男の子。
自分でも少し笑ってしまう。
「……ほんと、ずるいなあ」
こんなタイミングで思い出すのは、派手な言葉じゃない。
“怖いなら怖いままでもいい”なんて、あまりにも飾り気のない一言だ。
でも、その言葉を思い出すたびに、変に整えすぎた自分へ戻らずに済む。
「沙也加ちゃん、次、移動していい?」
スタッフの声が飛ぶ。
「はい、お願いします」
白須賀はスマホを伏せ、もう一度鏡の中の自分を見る。
トップアイドル。
国民的。
東京ドーム単独。
その全部の言葉を、今はまだ完全には背負いきれていない。
でも、背負いきれないまま立って、それでも最後には“白須賀沙也加でよかった”と思わせる。それができた時、多分、本当にそう呼ばれる側へ行ける。
白須賀は深く息を吸い、次のフロアへ向かった。
喉は少し重い。
足も疲れている。
それでも、今日は昨日よりほんの少しだけ前へ進んでいる気がする。
東京ドームまで、あと二日。
短い。短すぎる。
だからこそ、この一日を無駄にはできない。
白須賀沙也加は、もう一度だけ心の中で繰り返した。
届ける。
上手くやるためじゃなく、自分の全部を持っていくために。
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