東京ドームまで残り……
東京ドーム本番まで、あと四日。
その数字だけが、学校でも、芸能ニュースでも、ファンのタイムラインでも、やけに大きく見え始めていた。
白須賀沙也加が学校を休むようになってから、教室の空気は静かになったようでいて、実際には別の種類のざわめきを抱え込んでいた。
隣の席は今日も空いたまま。けれどその不在は、時間が経つほど“いないことに慣れる”のではなく、逆に“何か大きいことが近づいている”という実感だけを強くしていく。
朝のホームルーム前、後ろの席の男子たちがスマホを見ながら話していた。
「ドーム、物販だけでやばい人数らしいぞ」
「配信も入るんだろ? 白須賀さん、もう完全に国民的って感じだな」
「ていうか、学校のショートドラマ見てからライブ気になったって人、結構いるらしい」
最後の一言だけ、妙に引っかかった。
ショートドラマ。
あの、学園ラブコメの皮を被った厄介な番組だ。あれがどこまでライブへ繋がっているのかは分からない。分からないけれど、白須賀の名前がさらに広がるきっかけの一つにはなってしまったのだろう。
僕が教科書を机へ出していると、前の席の天雨美鈴が振り向いた。
「沢渡くん」
「なに」
「今日の昼、少し早めに屋上行く?」
「なんで」
「人が少ないうちに」
理由はそれだけで十分だった。
最近の教室は、静かに見えて意外と油断できない。誰かが大声で絡んでくることは減ったが、そのぶん“ちょっと聞きたいことがある”という顔で近づいてくる人間がじわじわ増えている。
「……分かった」
僕がうなずくと、天雨はそれ以上何も言わずに前を向いた。
でも、耳にかかる黒髪の奥に、少しだけ安堵したような気配が見えた気がした。
※ ※ ※
昼休みの屋上は、思っていたより風が強かった。
ベンチへ腰を下ろした瞬間、紙パックのジュースが軽く揺れる。
天雨は僕の少し隣に座ると、弁当箱の蓋を開けながら唐突に言った。
「白須賀さん、今日たぶんテレビに出るよ」
「なんで分かるの」
「朝の情報番組の予告」
そう言えば、登校前に母親がそんなことを言っていた気もする。
僕は見ていなかった。というより、朝は自分の準備で精一杯だった。
「ライブ直前特集らしい」
天雨は箸を動かしながら続ける。
「努力してる姿とか、リハの様子とか、多分そういうのも流れる」
「……見るの?」
「見る」
即答だった。
迷いがない。
「沢渡くんは?」
「どうだろ」
「見たほうがいいと思う」
「なんで」
そこで天雨は少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「白須賀さんが今、どれだけアイドルとして背負ってるのか、ちゃんと分かるから」
それは、少し前の天雨なら言わなかった種類の言葉に思えた。
彼女は白須賀を意識している。
多分、かなり。
けれどそれと同時に、白須賀が背負っているものの重さを、嫌々ながらも認めているのだろう。
「私、あの人のこと好きじゃない部分もあるけど」
「部分もある、なんだ」
「全部じゃないよ」
天雨はほんの少しだけむっとした顔になる。
「でも、あそこまで行く人って、見えるところだけで出来てるわけじゃないから」
言いながら、天雨は自分の弁当へ視線を落とした。
その横顔は静かだったが、たぶん心の中ではいろいろ複雑なのだろう。
「……もし今日見るなら」
「うん」
「“すごい”だけで終わらせないで見て」
その一言が、妙に印象へ残った。
※ ※ ※
放課後、僕は図書室で本を返してから帰ろうとしていた。
昇降口へ向かう途中、廊下の掲示板の前で柊先輩に呼び止められる。
「沢渡くん」
「先輩」
「今、少しだけいいかしら」
少しだけ。
その前置きがあるだけで、だいぶ精神的に楽だ。
柊先輩は手に持っていたクリップボードを閉じると、廊下の端へ少し寄った。
「白須賀さんの件、学校側でもかなり話題になっているの」
「やっぱりですか」
「ええ。見学会の問い合わせも増えたし、取材関連も来ているし、校内でもざわつきが収まらないわ」
だろうな、と思う。
東京ドーム単独公演なんて、学校全体で見ても前代未聞に近いだろう。
「ただ、私は別の意味でも少し気になっているの」
「別の意味?」
柊先輩は、ほんの少しだけ視線を下げた。
「今日、芸能ニュースの関係者向け速報で、白須賀さんの特集映像を少し見たのだけれど……思っていたより、追い込んでいるわね」
その言い方に、僕は少しだけ息を止めた。
「分かるんですか」
「細かいことまでは分からない。でも、ああいう映像は、見せたい努力だけを切り取るものなのに、それでも疲労が隠しきれていない時がある」
柊先輩らしい観察だと思った。
感情で言うのではなく、見えているものから判断している。
「沢渡くん」
「はい」
「あなた、前に言っていたわよね。白須賀さん、朝から笑いすぎていて逆に大変そうだって」
「……はい」
「多分、その勘は外れていないと思うわ」
廊下の窓から差し込む夕方の光が、柊先輩の横顔を少しだけ柔らかく見せる。
「ライブが成功するかどうかは、私には分からない。でも、成功させるために自分を削るタイプだということだけは、見ていて分かる」
その一言には、妙に現実味があった。
「だから、もし向こうから何かを見せられた時は、ちゃんと受け取ってあげなさい」
「何かって……」
「弱音でも、焦りでも、助けを求めるサインでも」
そこで柊先輩は少しだけ目を細める。
「あなたに気づかれてしまうくらいには、向こうも余裕がないのかもしれないから」
それだけ言って、柊先輩は掲示物の確認へ戻っていった。
僕はしばらくその場に立ち尽くす。
天雨も、柊先輩も、形は違うのに同じ方向を見ている。
白須賀は強い。でも、強いからこそ、自分を追い込む。
その輪郭が、少しずつはっきりしてきていた。
※ ※ ※
その夜、僕は珍しくゲームをつける前にテレビをつけた。
母親が「ほら、始まるよ」と言いながらチャンネルを合わせる。
画面の中では、東京ドームの外観と一緒に、白須賀沙也加の文字が大きく踊っていた。
特集自体は数分だった。
歌唱練習。ダンス確認。巨大なステージセットの前での立ち位置調整。真剣な表情、汗で張りついた前髪、インタビューで見せる柔らかな笑顔。
『初めての東京ドーム単独公演です。楽しみも大きいですけど、その分だけ責任も大きいので、今の私ができる全部でちゃんと応えたいです』
そう話す白須賀は、やっぱり綺麗だった。
綺麗で、明るくて、完璧だった。
でも、短い映像の中に一瞬だけ、何度も同じ動きを繰り返す姿が映る。
カットがかかったあと、笑顔を作る前に息を吐く瞬間も映る。
多分、普通の視聴者は“努力してるんだな”くらいにしか思わない。
でも、今日の天雨や柊先輩の言葉を聞いたあとだと、その数秒が妙に引っかかった。
見せる努力の裏に、隠しきれないものがある。
そして白須賀は、多分それを気づかれたくないまま抱えている。
番組が終わったあと、僕はゲームの電源を入れた。
でも、いつもほど画面に集中できなかった。
※ ※ ※
翌日。
白須賀沙也加は、朝から別のスタジオで歌入れをしていた。
東京ドーム本番で使う映像演出の仮編集に合わせて、数曲だけコーラスの差し替えを行う予定だった。午前中は発声、昼に歌録り、夕方からまたドームでの実寸リハーサル。
スケジュール表を見れば気が遠くなる。けれど、今の白須賀に“休みたい”という選択肢は最初から存在しなかった。
昨日のドームでのMC修正は、確かに一つの突破口だった。
“正しい白須賀沙也加”より、“白須賀沙也加だから見たい”を優先する。
その感覚を掴んでから、少しだけ言葉も表情も変わった。
でも、だから終わりではない。
むしろ、そこから先のほうがずっと繊細だった。
ドームの本番は、歌って、踊って、喋って、煽って、また歌う。
一箇所で感情が通ったからといって、全体が自動的に繋がるわけじゃない。セットリストのどこで緩め、どこで爆発させ、どこで“白須賀沙也加そのもの”を前に出すか。全部を一本の線にしなければならない。
「沙也加ちゃん、さっきのBメロ、ちょっとだけ喉に乗せすぎ」
歌唱ディレクターの指摘が飛ぶ。
「はい、もう一回やります」
返事はすぐに出る。
でも、そのあとで自分の声を聞き返すと、わずかに硬さが残っているのが分かった。
焦ってはいないつもりだった。
昨日、自分の欠けていたものに気づいた。変えようともしている。
それなのに、身体のほうはついてきてくれない。
歌に感情を乗せようとすると、今度は喉へ負荷がかかる。
ダンスで遊びを入れると、別の角度が甘くなる。
自由になるほど、管理しきれない部分も増える。
スタジオの鏡に映る自分を見て、白須賀は小さく唇を噛んだ。
完璧にやるほうが簡単だった。
正解だけを積み上げるなら、今までの自分はかなりうまくやれていた。
でも今は、その正解だけじゃ届かないと知ってしまった。
知ってしまった以上、もう戻れない。
白須賀はタオルで汗を拭き、机の上に開きっぱなしのノートを見る。
そこには昨日の夜、自分で書き足した言葉が並んでいた。
正しく見せるより、私で届かせる。
怖さも熱も、そのまま前へ出す。
完成じゃなくて、本気を見せる。
その隅に、もう一つだけ、あとから書き足した言葉がある。
見ててね。
そこだけ、相手の名前を書いていない。
でも白須賀自身には、誰へ向けた言葉か分かっていた。
「……もう一回、お願いします」
声は少し掠れていた。
それでも、止まりたくなかった。
玲音の厳しさも。
沢渡裕二の不器用なくせに妙に核心だけを掴む言葉も。
全部を今の自分の中へ取り込んで、東京ドームの真ん中へ持っていく。
白須賀沙也加は、もう一度マイクの前へ立つ。
足りないところは、まだ山ほどある。
でも、その足りなさを埋めるために、自分を削るだけじゃなく、“白須賀沙也加だから見たい”と思わせる熱まで抱えて立つ。
そのやり方を掴めたら、東京ドームはきっと、ただの大きな会場じゃなくなる。
自分が“国民的アイドル”の名を、本当の意味で手に入れる場所になる。
そう信じて、白須賀は今日もまた、同じ一節を何度でも歌い直した。
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