トップアイドルとして何をしたい?
白須賀沙也加が学校を休むようになってから、教室の空気は妙な静けさを帯びていた。
騒がしさが消えたわけではない。
むしろ、誰もが“あの席が空いていること”を意識しないふりで意識しているせいで、沈黙の輪郭だけが妙にはっきりしている。
朝のホームルームが終わったあと、担任が僕を呼び止めた。
「沢渡、これ」
差し出されたのは、事務所名の入った白い封筒だった。
周囲の視線が、嫌になるくらい分かりやすく集まる。
「……何ですか」
「白須賀側から。公演前日のドレスリハ見学パスだそうだ。学校経由で渡してくれって」
教室の空気が変わった。
「えっ、ドレスリハ!?」
「沢渡だけ!?」
「マジかよ……」
うるさい。
うるさいし、僕だって今初めて知った。
封筒の表には、簡潔に僕の名前だけが書かれていた。沢渡裕二。
それを見た瞬間、胸の奥で変な音が鳴る。白須賀は今、学校にいない。なのに、こういう形で急にこっちの現実へ割り込んでくる。
「別に参加は自由らしいぞ」
担任は他人事みたいに言う。
「まあ、貴重な機会ではあるんじゃないか」
それはそうかもしれない。
でも、陰キャにとって“貴重な機会”は大体しんどい。
僕が封筒を受け取ると、席へ戻るまでの数歩で、すでにいくつかの視線が刺さっていた。
しかも、今朝に限って天雨は前の席から振り返りもせず、ずっとこちらを見ていないふりをしている。そのぶん、逆に気づく。絶対に気にしている。
休み時間になって最初に口を開いたのは、やっぱり天雨だった。
「……それ、行くの?」
「まだ決めてない」
「ふうん」
短い返し。
でも、そのあとで小さく付け足す。
「行くなら、ちゃんと見てきて」
「何を」
「白須賀さんが、どういう顔で立ってるのか」
僕は少しだけ黙った。
天雨はそこでようやく振り向く。
静かな顔のまま、でも視線だけが少し強い。
「私たち、学校にいると分からないから。今の白須賀さんが、どこまで平気なふりしてるのか」
その言い方に、妙な現実味があった。
少し遅れて、柊先輩が教室の前を通りかかった。
僕の机の上の封筒に気づくと、一瞬だけ足を止める。
「届いたのね」
「知ってたんですか」
「学校経由で渡すものなら、生徒会にも話は来るわ」
柊先輩は淡々と答え、それから視線を落とす。
「行くなら、ちゃんと見てきなさい。東京ドームの現場なんて、そう簡単に触れられるものじゃないから」
「先輩まで」
「それに」
そこで少しだけ言葉を切る。
「白須賀さんが今、どこまで自分を削ってるのか。気づける人がいたほうがいい」
天雨と柊先輩が、違う顔をして同じことを言った。
その事実が、封筒の重みを少しだけ増す。
※ ※ ※
翌日の東京ドームは、本番前日だというのに、すでに巨大な熱を孕んでいた。
関係者入口から入った瞬間、まず音の量が違う。
どこかでリハのベース音が鳴り、照明の確認でスタッフが走り、トランシーバー越しに短い指示が何度も飛ぶ。まだ客は一人もいない。なのに、空間そのものが本番を前に脈打っているみたいだった。
受付を抜け、案内された関係者席へ向かう途中で、見覚えのある声が飛ぶ。
「裕二くん!」
振り向くと、吉良明日香がいた。
私服の上に薄いブルゾンを羽織っているが、明るい金髪はこんな場所でもやっぱり目立つ。手には関係者パス。つまり、彼女も招待されているらしい。
「吉良さん」
「え、来たんだ! やった、ちょっと安心した!」
「安心?」
「だって沙也加ちゃん、今ぜったい張ってるじゃん。そういう時、裕二くんいたほうがよさそうだし」
その言い方がやけに自然で、返事に困る。
少し遅れて、西条静も現れた。
黒髪を低い位置でまとめた私服姿は、清楚というより少し大人びて見える。
「来ていたのね」
「西条さんも」
「ええ。招待状をいただいたから」
相変わらず無駄のない答え方だった。
その少し後ろでは、神代蓮と二階堂蒼真も関係者席の案内を受けている。二人ともきちんとした服装で来ていて、芸能界慣れしている空気を隠さない。
ただ、その視線の先は分かりやすかった。
東京ドームの構造でも、演出でもなく、白須賀沙也加そのものを見に来た顔だ。
「白須賀さん、もうステージ入ってるのかな」
「多分そうだろうな。こういうのって直前が一番忙しいし」
神代と二階堂がそんな会話を交わす。
やっぱり、狙いはそこらしい。
その時、少し離れた通路の影で、玲音の姿が見えた。
前にいた時のように気安く近づいてくるわけではない。僕へ一度だけ視線を寄越して、それから短く顎を引く。
挨拶というより、確認だ。
ちゃんと来たんだ、くらいの。
玲音は明日香や静たちのほうを、テレビで見た芸能人同士の距離感そのままに眺めていた。会ったことはないのだろう。近づく様子もなく、あくまで一線引いた位置に立っている。
それが少し意外で、逆に自然だった。
※ ※ ※
やがて客席照明が少し落ち、リハーサル用の音がドーム全体へ広がる。
ステージ中央へ現れた白須賀は、昨日までのレッスン着とは違っていた。
本番用衣装の一部を着けた状態で、髪もメイクもライブ仕様に寄せている。まだ完成形ではない。それでも、ただそこへ立っただけで空気が引き締まる。
「……やば」
明日香が素直に漏らした。
それは本当にそうだった。
空っぽの客席。リハーサル。歓声もない。なのに、白須賀が一歩前へ出るごとに、何万人分もの視線がそこへ集まる未来が容易に想像できる。
最初の数曲は順調だった。
歌もダンスも、昨日見た段階よりはるかに伸びている。力みが減って、代わりに熱が前へ出ていた。
玲音は少し離れた席でそれを見ながら、小さく息を吐く。
昨日の言葉が無駄ではなかったことが分かる程度には、白須賀はちゃんと変えてきていた。
だが、壁は別の場所にあった。
三曲目終わり。
照明が落ち、白須賀が一人、センターステージへ残る。ここは本番ならMCが入る場面らしい。
スタッフが合図を出す。
白須賀はマイクを口元へ上げる。
「みんな、今日は来てくれて――」
そこで、わずかに間がずれた。
言葉自体は間違っていない。
でも、広いドームに対してその言葉が浮いている。ちゃんとしているのに、遠い。誰にも届いていないわけではないのに、白須賀沙也加だからこその引力がそこだけ急に薄くなる。
演出席からすぐに声が飛んだ。
「ストップ。今のMC、綺麗なんだけど、ちょっと台本すぎる!」
白須賀は一瞬だけ止まり、それからすぐにうなずく。
「……もう一度お願いします」
「歌とダンスのあと、そのまま客席を自分の空気に引き込む感じが欲しい! 今のだと“上手に喋ってる”だけで、少し距離がある!」
その指摘は、昨日の“綺麗すぎる”とは違う種類で、でも同じ根を持っていた。
歌とダンスでは熱を戻せている。
でも、一人で何万の客席へ話しかけるMCになると、また“正しい言葉”へ寄ってしまうのだ。
白須賀はマイクを握り直した。
もう一回。
その次も、もう一回。
言い回しを変えて、間を変えて、声の抜き方を変える。けれど、どれも少しずつ違うだけで、決定打にならない。
関係者席にも、さすがに緊張が走った。
神代は黙って前を見ている。
二階堂も、さっきまでの余裕を引っ込めていた。
明日香は心配そうに身を乗り出し、西条は静かなまま、ずっと白須賀だけを見ている。
玲音は席から立ち上がりかけた。
でも、その前に、僕が無意識に通路へ出ていた。
自分でも驚いた。
誰かに言われたわけでもない。なのに、じっと座っていられなかった。
※ ※ ※
スタッフの出入りが少ない袖近くの通路で、僕はようやく立ち止まった。
しばらくして、白須賀がそこへ来る。
MC確認の小休止らしく、マイクを持ったまま、少しだけ肩で息をしていた。
「……見てた?」
開口一番、それだった。
「見てた」
「最悪だったよね」
「最悪ではないと思う」
「でも届いてない」
即答だった。
白須賀は自分で、それを一番分かっている顔をしていた。
「歌ってる時はまだいいの。ちゃんと前に出せる。でも、喋ろうとすると急に“正解”探しちゃう。東京ドームで変なこと言えないって思うと、全部安全な言葉になる」
その苦しさは、さっき見ていて痛いほど分かった。
白須賀はマイクを持つ手に少しだけ力を込める。
「どうしよう。歌は作れる。ダンスも作れる。演出も積める。
でも、あの広さで“私一人が話す時間”だけは、どうしても自分のままでしか立てないのに、その自分がちゃんと前に出てこない」
さっきまでのリハーサルで一番苦しかったのは、そこだったのだろう。
僕は少しだけ考えて、それから言った。
「屋上だと、そんな感じしないのにね」
「え?」
「教室でもそうだけど、君って普段は喋る時に台本っぽくないじゃん」
白須賀が目を瞬かせる。
「東京ドームって単語が乗った瞬間だけ、急に“国民的アイドルの正解”を喋ろうとしてる感じがする」
言いながら、自分でもかなり踏み込んでいると思う。
でも今の白須賀に必要なのは、多分、遠慮した慰めじゃない。
「別に客席は“正しい白須賀沙也加”聞きに来るわけじゃないでしょ」
「……じゃあ何を聞きに来るの」
「白須賀沙也加が今、本当に何を思ってるか」
口にした瞬間、白須賀の表情が少しだけ止まった。
「ドームってすごいよね、とか、来てくれてありがとう、とか、もちろんそういうのも要るだろうけど。
でも、多分みんなが一番聞きたいのは、東京ドームに立ってる白須賀さん自身の声なんじゃないの。すごいとか怖いとか嬉しいとか、その全部込みで」
通路の向こうで、スタッフの声が小さく行き交う。
でもここだけは、妙に静かだった。
白須賀はしばらく黙り込んで、それから、ほんの少しだけ笑った。
「……沢渡くんってさ」
「なに」
「たまに、私が逃げたいところをちゃんと見つけるよね」
「逃げてた?」
「たぶんね」
白須賀はマイクを見下ろす。
「“正しい言葉”に隠れたら、失敗しないもん。アイドルとしては綺麗に見えるし、誰にも変なとこ見せなくて済むし」
「でも、それだと君がいない」
そこだけは、迷わず言えた。
白須賀は息を呑むように、静かに僕を見る。
その視線が、ほんの少しだけ熱い。
でも今は、そこに引っ張られたくなかった。
「東京ドームって、広すぎて怖いんでしょ」
「……うん」
「だったら、そのまま言えばいいんじゃない」
「え?」
「もちろん、言い方はあるだろうけど。でも、怖くないふりして遠い言葉並べるより、怖いくらい大事で、だからここに立ちたかったって言うほうが、多分、君っぽい」
言ったあと、少しだけ沈黙が落ちる。
白須賀はマイクを胸元で握りしめたまま、下を向く。
その肩が一度だけ小さく揺れて、それから、すっと息を吸った。
「……やってみる」
「うん」
「もしダメでも、あとで責任取ってね」
「なんでそうなる」
「だって沢渡くんのせいでもあるから」
その返しに、少しだけいつもの白須賀が戻る。
でも、目だけはまだ真剣だった。
※ ※ ※
再開したMC確認は、さっきまでとは明らかに違った。
白須賀はセンターステージへ一人で立つ。
照明が落ちる。ドームは広く、静かで、マイクを持ったその姿だけが真ん中に浮かぶ。
そして、彼女は一度だけ深く息を吸った。
「……こうやって一人で立つと、やっぱり広いなって思います」
最初の一言から、空気が変わった。
台本通りの綺麗な挨拶じゃない。
言葉は少し柔らかくて、でもそのぶん確かに本人のものだった。
「東京ドームって、ずっと夢みたいに聞いてきた場所で。
でも実際にここへ立つって決まってからは、夢っていうより、ちょっと怖い場所でもありました」
関係者席が静かになる。
神代も二階堂も、前のめりだった。
明日香は目を丸くしていて、西条は一度だけ小さく息を吐いた。玲音は、離れた通路の壁に背を預けたまま、目を細めている。
「でも、それでもここに立ちたかったのは、きっと今日ここに来てくれる一人一人へ、私の今をちゃんと届けたいからです」
その一言が、広い空間へきれいに飛んだ。
届いたのだ、と分かる。
歓声がないのに、そう感じる瞬間があった。
演出席のスタッフが顔を上げる。
音響の担当も、いつの間にか手を止めていた。
白須賀はそこから先、何かを思い出したみたいに少しずつ自然になっていった。
怖いことも、嬉しいことも、ここへ立てる意味も、全部を完璧に整えずに話す。なのに崩れていない。むしろさっきまでよりずっと“白須賀沙也加だから見たい”時間になっていた。
話し終えたあと、しばらく誰もすぐには口を開かなかった。
その沈黙のあとで、演出席からようやく声が飛ぶ。
「……それだ」
短い一言だった。
でも、それ以上に分かりやすい正解はなかった。
明日香がぱっと笑う。
神代が思わず拍手しそうになり、二階堂は小さく舌打ちまではしないものの、悔しそうに息をつく。西条は静かにうなずき、玲音は誰にも見えない位置でほんの少しだけ口元を緩めた。
白須賀はマイクを下ろし、それでもすぐにはこちらを見なかった。
でも、多分分かっている。誰の言葉が最後の一押しになったのか。
※ ※ ※
リハーサルが終わり、客席の照明が少しずつ落ちていく。
関係者たちも散り始める中で、白須賀は一人だけステージの端に残っていた。
僕が通路から見ていると、少しして彼女がこちらへ気づく。
その瞬間だけ、トップアイドルの顔ではなく、もっと個人的な笑みになった。
けれど彼女は何も言わない。
ただ、遠くから一度だけ小さく口を動かした。
――見てて。
声は届かない。
でも、その形だけははっきり分かった。
東京ドーム本番まで、もうほとんど時間は残っていない。
そして白須賀沙也加は、ようやく“正しく勝つ”ためではなく、“自分で届かせる”ための形を掴み始めていた。
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