公演のあとの余韻
全国ツアー最終公演から一週間後。
白須賀沙也加は、ようやく学校へ帰ってきた。
教室の扉が開いた瞬間、歓声が上がった。
「白須賀さん、おかえり!」
「ツアー完走おめでとう!」
「最終公演、ニュースで見たよ!」
クラスメイトたちが一斉に彼女を囲む。
沙也加は少し驚いたあと、いつもの完璧な笑顔で一人一人へ頭を下げた。
「ありがとう。最後まで走れたのは、応援してくれたみんなのおかげです」
その姿は、全国ツアーを終えた国民的トップアイドルそのものだった。
最初の頃よりも、立ち姿に迷いがない。
何万人もの歓声を受け止め、いくつもの街を巡り、最後までステージに立ち続けた人間の強さがあった。
けれど、人の輪が途切れた瞬間。
沙也加はまっすぐ僕の席へ来た。
「裕二」
「おかえり」
「うん。ただいま」
それだけ言って、彼女は自分の席には座らなかった。
当然のように僕の机へ突っ伏す。
「おい」
「疲れた」
「ツアーが終わって一週間経ってるだろ」
「一週間分、裕二が足りなかった」
「毎日連絡してただろ」
「画面越しと現物は違う」
現物扱いされた。
沙也加は机の下で僕の袖を掴み、満足そうに目を細めた。
全国ツアーを終えて強くなったと思ったが、この部分だけは何も変わっていないらしい。
「白須賀さん」
天雨の声がした。
振り向くと、彼女が沙也加の机の横に立っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま、美鈴ちゃん」
「体調は?」
「大丈夫」
「信用できないわ」
「ツアー終わったのに?」
「ツアーが終わった直後だからよ」
天雨は沙也加の顔色をじっと確認する。
沙也加は少し困ったように笑ったが、以前のように反発はしなかった。
「ちゃんと寝てる。食事も取ってる。昨日もマネージャーさんに確認された」
「ならいいわ」
「美鈴ちゃん、本当にお母さんみたい」
「違うわ」
即答だった。
けれど、天雨の表情はどこか柔らかかった。
沙也加も、それ以上は茶化さなかった。
二人の間には、ツアー前にはなかったものがある。
恋敵であることは変わらない。
天雨の気持ちが消えたわけでもない。
それでも、全国ツアーを通して、二人は互いを一人の人間として認めるようになっていた。
「白須賀さん」
天雨が静かに続ける。
「最終公演、すごかったわ」
「ありがとう」
「悔しいけれど、あなたが沢渡くんの隣にいる理由は分かった」
沙也加の指が、僕の袖を掴んだまま止まった。
教室の喧騒が遠くなる。
「でも」
天雨は僕へ視線を向けた。
「私の気持ちまで終わったわけではないから」
「美鈴ちゃん」
「何もしないとは言っていないわ。ただ、今すぐ壊すつもりもない」
淡々とした声だった。
けれど、その奥にはまだ強い感情がある。
「白須賀さんが沢渡くんを泣かせたら、私は遠慮しない」
沙也加はしばらく天雨を見つめた。
以前なら、すぐに僕の腕へしがみつき、自分のものだと主張していただろう。
今も、袖を掴む力は少し強くなっている。
それでも彼女は逃げなかった。
「分かった」
沙也加はまっすぐ答えた。
「でも、泣かせない」
「断言するのね」
「うん。裕二が私を選んでよかったって、一生思えるようにする」
一生。
相変わらず重い。
天雨はわずかに目を見開いたあと、小さく息を吐いた。
「やっぱり、あなたは重いわね」
「知ってる」
沙也加は笑った。
天雨も、ほんの少しだけ笑った。
それは和解ではない。
決着でもない。
けれど、互いの想いを誤魔化さず、それでも同じ教室に立つための答えだった。
※ ※ ※
放課後、生徒会室へ顔を出すと、桜井会長が待ち構えていた。
「ツアー完走おめでとう、白須賀さん!」
「ありがとうございます、桜井先輩」
「そして裕二くんも、彼氏業完走おめでとう!」
「僕はツアーを回ってません」
「毎晩電話を待って、帰る場所を維持したんでしょ? 立派な裏方だよ」
勝手に裏方へ組み込まれた。
柊先輩は書類を整えながら、静かに沙也加を見る。
「お疲れさま、白須賀さん」
「ありがとうございます」
「本当に成長したわね」
その言葉に、沙也加は少し照れたように目を伏せた。
「でも、戻ってきて早々、沢渡くんの袖を一日中掴んでいたと聞いたけれど」
「誰から聞いたんですか」
「天雨さん」
報告されていた。
沙也加は少しだけ頬を膨らませる。
「久しぶりだったので」
「一週間でしょう」
「私にとっては長いんです」
柊先輩は呆れたように息を吐く。
それでも、本気で叱るつもりはないらしい。
「あなたたち二人とも、以前よりはましになったわ」
「以前よりは?」
「白須賀さんは、自分の不安を言葉にするようになった。沢渡くんは、面倒から逃げずに答えるようになった」
柊先輩の視線が僕へ向く。
「まだ不器用だけれどね」
「否定できません」
「でも、それでいいのかもしれないわ」
桜井会長が楽しそうに笑った。
「完璧な恋人同士なんて面白くないしね。白須賀さんが重くて、裕二くんが困って、でも結局離れない。ちょうどいいじゃん」
「他人事だと思って」
「他人事だもん」
堂々と言われた。
ただ、その横顔は少しだけ優しかった。
最初から全部を面白がっていたようで、会長なりに僕たちを見守ってくれていたのだと思う。
「それで」
桜井会長が机へ身を乗り出す。
「ツアー完走後の初デートは、いつ?」
「会長」
柊先輩が止めるより早く、沙也加が答えた。
「明日です」
「もう決まってるんだ」
「朝から夜まで、裕二を独占します」
「言い方」
「約束なので」
沙也加は当然のように僕の腕へ触れた。
「仕事なし、学校なし、他の女の子からの連絡もなしです」
「最後の条件は聞いてない」
「今追加した」
「勝手に追加するな」
桜井会長が声を上げて笑う。
柊先輩は眉間を押さえていたが、口元にはわずかな笑みがあった。
※ ※ ※
翌日。
沙也加との約束の日。
待ち合わせ場所に着くと、彼女はすでにそこにいた。
帽子と伊達眼鏡で顔を隠し、目立たない服装を選んでいる。それでも、立っているだけで周囲の視線を集めていた。
僕を見つけた瞬間、沙也加の顔が明るくなる。
「裕二」
「待たせたか?」
「三分」
「時間前だぞ」
「私が先に来たから三分待った」
「理不尽だな」
「でも許す」
沙也加は僕の隣へ並んだ。
そして、ごく自然に僕の手を握る。
「今日は白須賀沙也加じゃないから」
「何なんだ?」
「裕二の彼女」
即答だった。
「一日全部、沙也加でいる」
その言葉を聞いて、僕は握られた手を握り返した。
「なら、今日は僕も彼氏でいる」
「今日だけ?」
「言葉の綾だ」
「毎日でいて」
「分かってる」
沙也加は満足そうに笑った。
全国ツアーを走り切ったトップアイドル。
何万人ものファンを熱狂させ、これからもっと遠くへ進んでいく人。
けれど今、僕の隣にいる彼女は、ただの女の子だった。
そして僕も。
逃げ続けていた頃の僕ではない。
自分の気持ちを認め、彼女の重さを受け止め、それでも隣にいたいと思えるようになった。
「どこに行く?」
僕が尋ねると、沙也加は少し考えたあと、笑った。
「どこでもいい」
「珍しいな」
「裕二と一緒なら、ちゃんと帰ってこられるから」
僕たちは歩き始めた。
物語の終わりへ向かうためではなく。
その先に続く、僕たちの日常へ向かって。
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