ツアーの終わりまで!
全国ツアー最終公演まで、あと三日。
その頃になると、学校でも沙也加の名前を聞かない日はなくなっていた。
地方公演のたびに話題が増え、新曲の配信はランキング上位へ入り、ツアーの追加映像が公開されれば、短時間で再生数が跳ね上がる。教室のクラスメイトたちでさえ、次のMCでは何を話すのか、最終公演で特別な発表があるのかと盛り上がっていた。
けれど、僕が気にしていたのは、もっと小さなことだった。
沙也加の声が、少しずつ疲れている。
毎晩の電話で、本人は隠そうとしていた。今日も成功した。ファンが笑ってくれた。スタッフさんに褒められた。次も頑張れる。
明るい話ばかりを選んでいる。
だからこそ、分かった。
沙也加は、限界へ近づいている。
「白須賀さん、また無理してるの?」
昼休み、天雨が僕のスマホを見ながら言った。
「本人は大丈夫だと言ってる」
「なら、大丈夫ではないわね」
「断定が早い」
「白須賀さんの“大丈夫”は信用しないことにしたのでしょう?」
以前、僕が言ったことを覚えていたらしい。
「最終公演までは止まらないと思う」
「ええ。止めても聞かないでしょうね」
天雨は少し考えたあと、静かに続けた。
「だから、帰ってきた後に止めてあげるしかないわ」
「帰ってきた後」
「白須賀さんは、終わった瞬間から次へ進もうとする人だから」
確かにそうだ。
ツアーが終われば休むとは限らない。成功した反響への対応、取材、新曲の活動、学校への復帰。きっと彼女は、立ち止まる暇もなく次を背負おうとする。
「沢渡くん」
天雨が僕を見る。
「最終公演の後、白須賀さんが仕事の顔をやめられなかったら、あなたが沙也加さんに戻してあげて」
珍しい呼び方だった。
白須賀さんではなく、沙也加さん。
天雨も分かっているのだ。
ステージを降りた後、彼女を受け止めるのは、白須賀沙也加を好きなファンではない。
沙也加を好きな僕なのだと。
※ ※ ※
その夜、沙也加から届いたのは電話ではなく、短い音声だった。
『裕二、今日は電話できない。ごめんね』
掠れた声だった。
『喉は大丈夫。明日は調整日だから、ちゃんと休む。最終公演、絶対に最高にするから』
最後に、少しだけ間が空く。
『……寂しいけど、あと三日だから。待ってて』
僕はすぐに音声を録音した。
「謝らなくていい。今日は話さなくていいから、ちゃんと寝ろ。最終公演まで待ってる。終わった後も待ってるから、安心して行ってこい」
送信する。
既読はついたが、返信はなかった。
それでいい。
今は僕へ返事をするより、眠る方が大事だ。
そう思ってスマホを置いた直後、一通だけメッセージが届いた。
『帰ったら、一日全部もらうから』
休む話をしているのに、要求だけは忘れないらしい。
『分かった』
そう返すと、今度こそ連絡は途切れた。
※ ※ ※
最終公演当日。
会場は、初日以上の熱気に包まれていた。
全国を走り抜けた白須賀沙也加が、最後に戻ってくる場所。ツアーグッズを身につけたファンたちが駅から続き、会場前には大きなツアーフラッグが掲げられている。
僕は関係者パスを握りしめ、入場口へ向かった。
最終公演だけは、どうしても来たかった。
沙也加には伝えていない。
マネージャーさんと玲音に協力してもらい、関係者席の位置も少し変えてもらった。驚かせたいというより、今まで僕がいない客席で頑張ってきた彼女を、最後だけは自分の目で迎えたかった。
「沢渡くん」
後ろから声をかけられる。
天雨だった。
今日は柊先輩と桜井会長、結城も一緒にいる。
「白須賀さんには内緒なのね」
「ああ」
「見つけたら、歌の途中で泣くんじゃない?」
「縁起でもないこと言うな」
「泣いても歌い切ると思うけれど」
天雨の言葉には、確かな信頼があった。
初日の頃とは違う。
彼女はもう、恋敵だからではなく、一人の人間として沙也加の強さを認めている。
桜井会長が僕の肩を軽く叩いた。
「いやあ、最終日に彼氏がサプライズ登場。いいね。青春だね」
「会長、絶対に声を上げないでくださいよ」
「『裕二くん、ここだよー!』って?」
「やめてください」
柊先輩が会長の腕を掴んだ。
「会長は私が止めるわ。あなたは白須賀さんだけ見ていなさい」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
※ ※ ※
照明が落ちた。
ツアーを締めくくる最後の一夜が始まる。
何度も歌ってきた一曲目。
何度も上った階段。
何度も浴びた照明。
けれど、ステージに現れた沙也加は、初日とはまるで違っていた。
怖さを振り切るように笑っていた初日。
今夜の彼女は、その怖ささえ自分の一部として従えていた。
歌声には厚みがあり、動きには余裕があり、客席を見渡す瞳には強さがある。全国で受け取ってきた歓声のすべてを背負い、さらに大きくなった白須賀沙也加がそこにいた。
会場は一曲目から熱狂した。
彼女が手を伸ばせば何万人もの光が揺れ、名前を呼べば声が返る。沙也加はその全部を抱きしめるように、ステージの端から端まで駆けた。
僕も目を離さなかった。
最初から最後まで。
約束通りに。
そして、ライブ後半。
静かなバラードの間奏で、沙也加が客席をゆっくりと見渡した。
その視線が、こちらへ向く。
一瞬、通り過ぎた。
けれど、すぐに戻ってきた。
沙也加の目が、大きく見開かれる。
見つかった。
何万人もの客席の中で、彼女は僕を見つけた。
歌声が、ほんの少しだけ揺れた。
それでも途切れない。
沙也加は目元を潤ませながら、最後まで歌い続けた。
僕だけを見るのではなく、客席全体へ歌を届けながら。
それでも、その笑顔の一番奥に僕を置いたまま。
曲が終わる。
大きな拍手が会場を包む。
沙也加は深く息を吸い、少しだけこちらを見て笑った。
その顔は、言葉よりも雄弁だった。
来てくれた。
待っていてくれた。
帰ってきていい。
その全部を確かめた人の笑顔だった。
全国ツアー最後の夜。
白須賀沙也加は、初日よりも強く、眩しく、堂々とステージに立っていた。
そして僕は、その彼女が帰ってくる瞬間を、今度こそ一番近くで迎えるつもりだった。
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