ツアーの夜にて
翌朝、目を覚ますと通話はすでに切れていた。
枕元にはスマホと、昨夜握ったまま眠ったらしい関係者パスが置かれている。
画面を確認すると、沙也加から短いメッセージが届いていた。
『昨日、寝ちゃってごめん』
『最後に何か言った?』
どうやら、僕の返事は聞こえていなかったらしい。
少し安心したような、残念なような、複雑な気持ちになる。
『別に』
『ちゃんと休め』
そう返信すると、すぐに既読がついた。
『怪しい』
『絶対何か言った』
『もう一回言って』
『聞こえてないなら意味ないだろ』
『意味ある』
『私が聞きたいから』
朝から面倒だった。
けれど、僕は数分悩んだ末、音声を録音した。
「昨日も言ったけど、僕も好きだよ。今日も頑張れ」
送信する。
既読がついたあと、しばらく返信はなかった。
また仕事が始まったのかと思っていると、ようやく一通だけ届く。
『今日の公演、絶対成功する』
『今、世界で一番強いから』
単純だった。
でも、それくらいで強くなれるなら、何度でも言ってやってもいいと思った。
※ ※ ※
数日後、全国ツアーは折り返し地点を迎えた。
公演を重ねるたび、沙也加の評判はさらに広がっていく。公式が公開する写真や映像には、初日よりも余裕のある笑顔が増えていた。MCにはその土地ならではの話が入り、細かな演出も会場ごとに変化しているらしい。
沙也加は、ステージの上で成長していた。
僕が直接見られない場所で。
その事実には寂しさもあったが、それ以上に誇らしさがあった。
昼休み、教室では沙也加が出演した地方局のインタビュー映像が話題になっていた。
クラスメイトのスマホから、聞き慣れた声が流れる。
『ツアーを走り続ける原動力は何ですか?』
画面の中の沙也加は、少し考えてから笑った。
『待っていてくれる人がいることです』
ファンのことだろう。
誰もがそう思う自然な答えだった。
けれど、彼女は続けた。
『どれだけ遠くへ行っても、帰ってきていいって言ってくれる場所がある。それだけで、私は何度でもステージに立てます』
僕の指が止まった。
周囲のクラスメイトたちは、いいこと言うね、と素直に感動している。
でも僕には分かった。
ファンやスタッフへの感謝だけではない。
あれは、僕にも向けられた言葉だ。
「分かりやすいわね」
天雨が隣で静かに言った。
「何が?」
「白須賀さん」
「ファンに向けた話だろ」
「そういうことにしてあげる」
天雨はそれ以上追及しなかった。
けれど、少しだけ寂しそうに画面を見ている。
「美鈴さん」
「なに?」
「沙也加が戻ってきたら、また心配してやってくれ」
天雨が目を丸くした。
「私に頼むの?」
「沙也加は、美鈴さんの言うことなら意外と聞くから」
「あなたの言うことが一番効くでしょう」
「僕だと甘える方に逃げる」
「それはそうね」
即答だった。
天雨はしばらく考えたあと、小さく頷く。
「分かったわ。ただし、勘違いしないで」
「何を?」
「白須賀さんのためだけではないから」
彼女の視線が、僕へ向く。
「白須賀さんが倒れたら、あなたまで沈むでしょう。それが嫌なだけ」
優しさを隠すには、不器用すぎる言葉だった。
「ありがとう」
「まだ何もしてないわ」
天雨はそう言って顔を逸らした。
※ ※ ※
その日の夜、沙也加からビデオ通話が来た。
画面に映った彼女はホテルのベッドに座っていた。髪は下ろされ、メイクもほとんど落としている。ステージの上の白須賀沙也加とは違う、完全に気の抜けた姿だった。
「ただいま、裕二」
「おかえり」
「今日のインタビュー見た?」
「見た」
「気づいた?」
「何に」
僕がとぼけると、沙也加は不満そうに目を細める。
「帰る場所の話」
「ファンに向けた言葉だろ」
「ファンのみんなにも向けた。でも、一番奥は裕二」
「そうか」
「反応薄い」
沙也加は枕を抱え込み、画面へ顔を近づける。
「もう少し喜んで」
「嬉しかったよ」
「本当?」
「ああ。僕にしか分からない言葉を混ぜたんだと思ったら、少し嬉しかった」
沙也加の口元が緩んだ。
「少し?」
「かなり」
「よろしい」
彼女は満足したらしい。
けれど、次の瞬間には少し表情を曇らせた。
「今日、学校で誰と話した?」
「またそれか」
「日課だから」
「美鈴さんと、沙也加が帰ってきた時の話をした」
「私の話?」
「ああ。戻ってきたら無理してないか見てやってくれって頼んだ」
沙也加は数秒黙った。
「裕二が、美鈴ちゃんに?」
「嫌だったか?」
「少し」
正直だった。
「でも、嬉しい方が大きい」
「珍しいな」
「だって、裕二が私のこと考えて頼んでくれたんでしょ」
「ああ」
「なら嬉しい」
以前なら、天雨と話したことだけで嫉妬していたかもしれない。
今も嫉妬はしている。
けれど、その感情だけに飲まれず、僕の意図を受け取ろうとしている。
沙也加も、少しずつ変わっていた。
「美鈴ちゃんなら信用できるし」
「恋敵なのに?」
「恋敵だから。私が弱ってる間に裕二を奪いたいなら、もうとっくにもっと踏み込んでる」
妙に冷静な分析だった。
「でも、信用してるのと警戒するのは別」
「結局警戒するのか」
「当然」
成長しても、根本は変わらないらしい。
沙也加は枕へ頬を埋めながら、少し眠そうに目を細めた。
「裕二」
「なんだ」
「ツアーが終わったら、会いたい」
「会えばいいだろ」
「一日全部ほしい」
「全部?」
「朝から夜まで。仕事なし。学校もできればなし。他の子からの連絡もなし」
「条件が多い」
「そのくらい頑張ってる」
それを言われると弱かった。
「分かった。予定を空ける」
沙也加の顔が明るくなる。
「本当?」
「ああ」
「約束」
「約束」
「録音した」
「いつの間に」
「今の通話、心に録音した」
「紛らわしい言い方するな」
沙也加は楽しそうに笑った。
やがて、その笑い声がゆっくり小さくなっていく。
「あと少しなんだ」
「ツアー?」
「うん。長いと思ってたのに、もう折り返し」
寂しさと充実感が混ざった声だった。
「最後まで行ってくるね」
「ああ」
「もっと強くなって帰る」
「今でも十分強いよ」
「裕二が他の子を見なくなるくらい、もっと強くなる」
「方向がおかしい」
「私には大事」
沙也加は目を閉じかけながら、穏やかに笑った。
「待っててね」
「待ってる」
「浮気しないで」
「しない」
「美鈴ちゃんに優しくしすぎないで」
「努力する」
「副会長さんにも」
「はいはい」
「結城さんにも、玲音さんにも――」
「早く寝ろ」
僕が止めると、沙也加は小さく笑った。
「おやすみ、裕二」
「おやすみ、沙也加」
通話が切れる直前、彼女はもう一度だけ言った。
「もうすぐ帰るから」
真っ暗になった画面へ、僕は小さく頷いた。
「ああ。待ってる」
全国ツアーは折り返しを越えた。
沙也加が帰ってくる日は、少しずつ近づいていた。
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