次の公演
沙也加を乗せた車が見えなくなったあとも、僕はしばらく校門の前に立っていた。
胸ポケットには、次の公演の関係者パス。
本来なら会場へ入るためのものなのに、今日の僕には使えない。ただ持っているだけのカードだった。
それでも、授業中に制服越しの硬い感触を確かめるたび、遠くの街で準備を進めている沙也加の姿が浮かんだ。
「落とさないでね」
あの念押しが、妙に耳へ残っている。
放課後、生徒会室へ書類を届けた時も、桜井会長が僕の胸ポケットを見て目を細めた。
「裕二くん、そこに何か大事なもの入れてる顔だね」
「顔で分かるんですか」
「分かるよ。さっきから三回くらい触ってるから」
無意識だった。
柊先輩も書類から顔を上げる。
「白須賀さんから何か渡されたの?」
「次の公演の関係者パスです」
「あなた、行けないのでしょう」
「持っていてほしいと言われました」
柊先輩は一瞬だけ黙り、静かに息を吐いた。
「相変わらず、重いわね」
「本人も自覚してます」
「自覚があって改善しないのが一番厄介なのよ」
否定できない。
桜井会長は楽しそうに笑っている。
「でも、可愛いじゃん。遠距離彼女から渡されたお守りみたいなものでしょ?」
「関係者パスをお守りにする人は初めて見ました」
「トップアイドルだから、お守りまで特別仕様なんだよ」
そう言われると、少しだけ納得してしまう自分が嫌だった。
※ ※ ※
公演開始予定時刻を過ぎた頃、僕は自宅の机に向かっていた。
勉強をしようとしても、集中できない。
今ごろ一曲目が始まっただろうか。
沙也加はちゃんと笑えているだろうか。
肩の調子はどうだろう。
僕がいない客席を、無意識に探したりしていないだろうか。
スマホを確認しても、当然ながら連絡はない。
ステージの最中なのだから、あるはずがない。
それでも何度も画面を点けてしまう。
胸ポケットから出して机の上へ置いた関係者パスを眺めながら、僕はようやく気づいた。
会場にいないことを一番不安に思っているのは、沙也加だけではない。
僕も同じだった。
初日は自分の目で見られた。
歌声も、表情も、会場の歓声も、全部その場で受け取れた。けれど今日は、何も分からない。ただ遠くから、成功を祈ることしかできない。
帰る場所でいる。
言葉にするのは簡単だった。
だが、待つというのは、思っていたよりずっと苦しい。
そんなことを考えていると、スマホが震えた。
沙也加ではない。
玲音からだった。
『今、終盤』
『沙也加は大丈夫』
『初日よりいい顔してる』
僕は思わず息を吐いた。
『玲音さん、会場にいるのか?』
『今日は仕事で近くにいたから』
『関係者席から見てる』
『あんたの分まで見ておく』
ありがたかった。
同時に、少しだけ悔しかった。
僕が見られない沙也加を、玲音は今その場で見ている。
そんな感情を抱いた自分に驚いていると、続けてメッセージが来る。
『嫉妬した?』
見透かされていた。
『少しだけ』
『素直でよろしい』
『でも安心して』
『あの子、今日も客席の奥にあんたを置いて歌ってる顔してるから』
その一文を読んだ瞬間、机の上の関係者パスが、少しだけ重く見えた。
沙也加は今も歌っている。
僕がいない場所で。
それでも、僕をどこかに置いたまま。
※ ※ ※
公演が終わると思われる時間を過ぎても、沙也加から連絡は来なかった。
二十二時。
二十二時半。
二十三時。
ツアー初日なら、終演後にも取材やスタッフとの打ち合わせがあった。今日も同じなのだろう。分かっている。分かっているのに、落ち着かない。
僕は何度もスマホを確認した。
メッセージを送ろうとして、やめる。
終わった?
大丈夫か?
待ってる。
どれも、今の沙也加を急かしてしまう気がした。
だから何も送らず、ただ待った。
二十三時を少し回った頃、ようやく着信が来た。
僕はすぐに通話を取る。
「沙也加?」
けれど、返事がなかった。
微かな呼吸音だけが聞こえる。
「沙也加、大丈夫か?」
「……うん」
声が、ひどく掠れていた。
「ごめん。遅くなった」
「謝らなくていい。公演は?」
「成功した」
その声には、確かな喜びがあった。
けれど、それ以上に疲れが深い。
「今日ね、初日より客席が近かった。顔がたくさん見えた。泣いてる人も、笑ってる人もいた」
「ああ」
「私の歌を待ってくれてた」
「ああ」
「嬉しかった」
沙也加は、ゆっくりと言葉を重ねた。
「でも、終わったら急に寂しくなった」
僕は黙って聞く。
「裕二がいないの、分かってた。最初から分かってたのに、アンコールの最後で、つい探しちゃった」
声が少し震えた。
「当然、いなかった」
「沙也加」
「怒ってないよ。来られないの知ってるから。ただ……初日はいた場所に、今日は裕二がいなかった。それだけで、思ってたより寂しかった」
胸が痛んだ。
会場へ行けなかったことを責められているわけではない。
だからこそ、余計に苦しかった。
「パスは持ってた」
「え?」
「ずっと胸ポケットに入れてた。家に帰ってからも、机の上に置いてた」
電話の向こうで、沙也加が息を呑む。
「本当に?」
「ああ。何回も触って、今ごろ何曲目かって考えてた」
「……裕二も、私のこと考えてた?」
「ずっとではない」
「そこはずっとって言って」
「かなり考えてた」
少しだけ沈黙があった。
それから、沙也加が小さく笑った。
「よろしい」
弱い声だった。
でも、少しだけ安心している。
「僕も寂しかったよ」
気づけば、そう口にしていた。
「沙也加が今どんな顔で歌ってるのか、何も分からないのが嫌だった。玲音さんから大丈夫だって聞くまで、ずっと落ち着かなかった」
「玲音さん、いたの?」
声にわずかな棘が戻る。
「そこに反応するのか」
「だって、裕二が見られない私を玲音さんが見てた」
「沙也加も同じこと思うんだな」
「思うよ。すごく思う」
嫉妬する元気が戻ったらしい。
少し安心した。
「でも」
沙也加の声が、また柔らかくなる。
「裕二も寂しかったなら、少し嬉しい」
「人の寂しさを喜ぶな」
「だって、同じだったってことでしょ」
僕は返せなかった。
沙也加は疲れた声で、それでも嬉しそうに続ける。
「離れてるの、私だけが嫌なんじゃなかった」
「ああ」
「裕二も、私がいないと寂しい」
「認めたくない言い方だな」
「でも本当」
「否定はしない」
電話の向こうで、沙也加が静かに息を吐く。
「じゃあ、今日も帰れた」
「ああ。おかえり」
「ただいま」
その一言を交わした瞬間、遠くにあった声が少しだけ近くなった。
「裕二」
「なんだ」
「次の公演まで、パス持ってて」
「分かった」
「寝る時も?」
「そこまでは保証しない」
「枕元に置いて」
「努力する」
「写真送って」
「監視が細かいな」
「信頼の確認」
言い換えても重いものは重い。
けれど僕は、机の上の関係者パスを手に取った。
「今、手に持った」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ私も、裕二がくれた音声聞く」
「まだ聞いてるのか」
「毎公演前に聞くって決めた」
沙也加の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
「次の街にも行ってくるね」
「ああ。行ってこい」
「帰ってもいい?」
「何度でも帰ってこい」
また少し、沈黙。
やがて沙也加は、眠りかけたような声で言った。
「……好き」
それだけだった。
返事を待たず、通話の向こうで小さな寝息が聞こえ始める。
僕は電話を切らず、しばらくその音を聞いていた。
机の上には、使うことのできない関係者パス。
遠くのホテルには、僕の声を保存した沙也加。
僕たちは同じ場所にはいない。
それでも、離れて初めて分かった。
帰る場所になるということは、ただ待つことではない。
会えない時間も寂しさも抱えたまま、それでも相手が帰ってくると信じ続けることなのだ。
僕はカードを握りしめながら、小さく呟いた。
「僕も好きだよ、沙也加」
眠ってしまった彼女に、その声が届いたかは分からなかった。
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