変わらないもの
沙也加が学校へ戻ってきたその日は、朝から妙に騒がしかった。
全国ツアー初日の映像や地方公演のニュースが広がり、教室へ入ってきた彼女へ、クラスメイトたちが次々と声をかけていく。
「白須賀さん、ライブすごかった!」
「次の公演も頑張って!」
「新曲、早く配信してほしい!」
沙也加は一人一人に笑顔で答えていた。
疲労を感じさせない、完璧な白須賀沙也加の笑顔だった。
ただし、机の下では僕の制服の袖を掴んでいる。
「沙也加」
「なに?」
「返事をしてる間くらい離せ」
「無理」
「何でだ」
「久しぶりだから」
数日しか離れていない。
それでも、地方を移動しながら連日ステージに立っていた沙也加にとっては、長い時間だったのかもしれない。
僕が無理に振りほどかずにいると、天雨が自分の席からこちらを見た。
「白須賀さん」
「なに、美鈴ちゃん」
「その状態で今日一日過ごすつもり?」
「できれば」
「授業中に先生から注意されるわ」
「じゃあ授業中は離す」
「当然よ」
「休み時間は裕二の袖、予約済み」
「予約制なのね」
天雨は呆れていたが、どこか安心したようでもあった。
ステージの上では圧倒的だった白須賀沙也加が、学校へ戻れば相変わらず面倒な女の子であることに。
※ ※ ※
昼休み、僕たちは久しぶりに屋上へ上がった。
冬の空気は冷たかったが、雲の隙間から差し込む日差しは柔らかい。沙也加はベンチへ座ると、僕との間をほとんど空けなかった。
「学校、落ち着く」
「さっきまで囲まれてただろ」
「それでも落ち着くの。知ってる人しかいないから」
「全国のファンに聞かれたら泣くぞ」
「ファンのみんなは大好き。でも、学校は違う場所」
沙也加は膝の上へ両手を置き、校庭を見下ろした。
「ステージに立ってる時は、もっと見てほしいって思うの。もっと名前を呼んでほしい。もっと遠くまで届きたいって」
「ああ」
「でも、終わったら急に静かな場所が欲しくなる」
その横顔には、ツアーを経験する前にはなかったものがあった。
何万人もの期待を背負い、熱狂の中心へ立った者だけが知る孤独なのかもしれない。
「だから、裕二の隣に戻りたくなる」
「僕の隣は静かだからな」
「違う」
沙也加が僕の肩へ頭を預ける。
「裕二の隣だと、何者にもならなくていいから」
白須賀沙也加でなくてもいい。
トップアイドルでなくてもいい。
ただの沙也加でいられる。
彼女が求めている帰る場所とは、きっとそういうものだった。
「でも、今日は夕方には行くんだろ」
「うん」
次の公演地へ向かうため、放課後を待たずに出発する予定だった。
「もっと学校にいたい」
「仕事だから仕方ない」
「裕二を鞄に入れて連れていきたい」
「人間を荷物扱いするな」
「大きめのキャリーケースなら入るかも」
「試すなよ」
「もう調べた」
「何を?」
「裕二が入りそうなサイズ」
怖い。
冗談だと思いたいが、沙也加の場合、半分くらい本気で調べていそうだった。
※ ※ ※
昼休みが終わる頃、屋上の扉が開いた。
現れたのは柊先輩だった。
「白須賀さん、迎えの車が予定より早く着いたそうよ」
「副会長さん、ありがとうございます」
沙也加は立ち上がったが、僕の袖だけは離さない。
柊先輩はその手元を見て、静かにため息をついた。
「沢渡くんまで連れていくつもり?」
「できるなら」
「学校があるでしょう」
「休ませます」
「あなたにその権限はないわ」
沙也加は不満そうだった。
柊先輩は少し表情を緩める。
「次の公演も頑張りなさい。初日が成功したからこそ、気を抜かないように」
「はい」
沙也加は真剣に頷いた。
次の瞬間には、僕の袖を掴み直していたが。
「行くぞ、沙也加」
「……うん」
校門近くまで見送る。
黒い車の前には、マネージャーさんが立っていた。僕たちを見るなり、呆れたような、安心したような顔をする。
「沙也加、時間」
「分かってます」
そう答えながらも、沙也加は動かなかった。
僕の前に立ち、何かを待っている。
「行ってこい」
「それだけ?」
「頑張れ」
「もっと」
「次の公演も、沙也加なら大丈夫だ」
「もっと」
要求が多い。
マネージャーさんが腕時計を見る。
僕は仕方なく、沙也加の頭へ軽く手を置いた。
「終わったら待ってる」
沙也加の表情が、ようやく緩んだ。
「うん」
彼女は鞄から小さなカードを取り出し、僕へ押しつけた。
「これは?」
「次の公演の関係者パス」
「行けないって言っただろ」
「知ってる」
「なら何で」
「持っててほしいの」
カードの裏には、沙也加の字で短い言葉が書かれていた。
『ここにいなくても、私を見てて』
胸の奥が少し熱くなった。
「重いな」
「知ってる」
「行けないぞ」
「分かってる」
「それでも持ってろと?」
「うん」
沙也加は真っ直ぐ僕を見つめた。
「会場に裕二がいなくても、そのパスを持っててくれたら、少しだけ近くにいる気がするから」
僕はカードを制服の胸ポケットへ入れた。
「これでいいか?」
「落とさないでね」
「分かってる」
「他の子に触らせないで」
「触る機会ないだろ」
「念のため」
最後まで沙也加だった。
マネージャーさんに促され、彼女はようやく車へ乗り込む。
窓が閉まる直前、沙也加がこちらを見る。
「行ってきます、裕二」
「ああ。行ってこい」
車が走り出す。
窓越しに手を振る沙也加の姿が、少しずつ遠ざかっていった。
胸ポケットには、彼女が残した関係者パス。
会場へは行けない。
ステージを見ることもできない。
それでも公演が終われば、彼女は帰ってくる。
だから僕は今日も、遠くへ向かう彼女の背中へ、届かない声で呟いた。
「待ってるよ、沙也加」
胸ポケットのカードが、わずかに温かく感じられた。




