ただいま
沙也加が地方公演を回り始めてから、学校で過ごす時間は目に見えて減った。
空席になった隣の机を見ても、最初の数日は違和感しかなかった。授業中に妙な視線を感じることもない。昼休みに僕の机を占領する人もいない。放課後、迎えの車へ乗る前に袖を掴まれることもない。
静かだった。
望んでいたはずの平穏なのに、以前より教室が広く感じられる。
「寂しそうね」
昼休み、天雨が僕の隣へ立った。
「そんな顔してたか?」
「してるわ。空席を見て、ため息をついていた」
「ため息はついてない」
「では、寂しげな呼吸」
「言い換えただけだろ」
天雨は小さく笑った。
最近の彼女は、以前より僕へ話しかけることが増えている。沙也加がいないからと露骨に距離を詰めるわけではない。ただ、昼休みに隣へ来たり、プリントを渡すついでに短い会話をしたりする。
僕も避けなかった。
だからこそ、その日の夜に報告する内容が増えた。
「今日も白須賀さんに話すの?」
「何を?」
「私と話したこと」
「聞かれたら」
「聞かれなくても話した方がいいわ。あとで知った時の方が面倒でしょう」
「よく分かってるな」
「何度も見ているから」
天雨は窓の外へ目を向けた。
「でも、全部報告されるのも少し複雑ね」
「どうして?」
「私があなたと話した時間まで、白須賀さんのものになるみたいだから」
静かな声だった。
僕が返事を探していると、天雨はすぐに表情を戻した。
「困らせるつもりはないわ。ただの感想」
彼女はそう言って、自分の席へ戻っていった。
残された僕は、また沙也加の空席を見る。
遠くにいる沙也加。
近くにいる天雨。
距離だけでは、気持ちの重さは測れないらしい。
※ ※ ※
その夜、公演後の沙也加から電話が来た。
「ただいま」
「おかえり」
「今日も成功した」
疲れているはずなのに、声は弾んでいた。
今日の会場は初日より客席との距離が近く、ファンの表情までよく見えたらしい。MCで少し言葉を噛んだこと、アンコールでイヤモニを外して歓声を直接聞いたこと、最後にスタッフから褒められたこと。
沙也加は一つ一つ、楽しそうに話した。
「裕二にも見てほしかった」
「映像は残ってるんだろ?」
「映像じゃなくて、その場で見てほしいの」
「全部の会場は無理だ」
「分かってる」
声が少しだけ曇る。
「分かってるけど、言うくらいはいいでしょ」
「ああ。言うのは自由だ」
「じゃあ、毎回来てほしい」
「急に無茶を言うな」
「学校も一緒に持ってきて」
「学校を移動させるな」
沙也加が笑った。
その笑い声を聞いて、僕も少し安心する。
「それで、今日の裕二は?」
来た。
「普通に授業を受けた。昼は美鈴さんと少し話した」
「何を?」
声の温度が変わる。
「沙也加がいなくて、僕が寂しそうだって」
沈黙。
予想より長かった。
「沙也加?」
「……裕二、寂しいの?」
「少しは」
「少し?」
「かなり、とは言わない」
「言って」
「強制するな」
「私が聞きたいから言って」
電話越しなのに、こちらを真っ直ぐ見ているような声だった。
僕は小さく息を吐く。
「隣にいないと、やっぱり寂しい」
再び沈黙。
今度は、さっきより柔らかい沈黙だった。
「私も」
沙也加が小さく言った。
「ステージは楽しい。ファンのみんなに会えるのも嬉しい。でも、ホテルに帰った瞬間、裕二がいないって思う」
「ああ」
「だから電話する」
「知ってる」
「声を聞いて、今日も帰れたって思う」
沙也加の声から、少しずつ力が抜けていく。
「でも、美鈴ちゃんに私がいなくて寂しいって気づかれるの、ちょっと嫌」
「そこに戻るのか」
「だって、裕二のこと見すぎ」
「沙也加がいない間まで牽制するな」
「いないから牽制するの」
理屈だけは通っている気がしてしまうのが怖い。
「裕二」
「なんだ」
「私が帰るまで、待ってて」
「毎日言ってるな」
「毎日確認しないと不安だから」
「待ってるよ」
「誰の隣にも移動しない?」
「席替えがあったら保証できない」
「先生に言って」
「何て?」
「白須賀さんの彼氏なので、隣を空けてくださいって」
「全部終わるだろ」
沙也加はくすくす笑った。
地方にいるのに、いつもの彼女がすぐ近くにいるようだった。
※ ※ ※
それから三日後。
朝、教室へ入ると、空席だったはずの隣に人がいた。
机へ突っ伏し、長い髪を広げている。
見間違えるはずがない。
「沙也加?」
呼びかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「おはよう、裕二」
「次の公演まで戻らないんじゃなかったのか」
「予定が少し変わった。今日だけ学校来られることになったの」
顔には疲れが残っている。
それでも、その目は僕を見つけた途端に嬉しそうに細められた。
「驚いた?」
「ああ」
「会いたかった?」
僕は少し迷ってから、正直に頷いた。
「会いたかった」
沙也加の表情が、一瞬で緩んだ。
次の瞬間、彼女は僕の袖を掴む。
懐かしいというほど時間は空いていない。それなのに、その感触が妙に落ち着いた。
「ただいま、裕二」
「おかえり」
「もう一回」
「おかえり、沙也加」
満足したように笑ったあと、沙也加は僕の机へ再び顔を伏せた。
「眠い」
「帰ってきて最初にすることがそれか」
「裕二の隣だから寝られる」
「授業始まるぞ」
「始まるまで充電する」
僕の袖を掴む力が少し強くなった。
そこへ天雨が登校してくる。
僕たちを見た彼女は一瞬だけ足を止め、それから静かに言った。
「おかえりなさい、白須賀さん」
沙也加は顔を上げる。
「ただいま、美鈴ちゃん」
二人の視線が交わる。
穏やかだった。
けれど、机の下で沙也加が僕の袖を掴み直したのを、僕は見逃さなかった。
全国ツアーの途中。
久しぶりに帰ってきた彼女は、少し成長していた。
そして独占欲だけは、地方公演の数だけ順調に強くなっていた。
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