*7*
アゴは、光の中を漂っていた。
漂う、という言い方も正確ではない。光そのものになって、空間に充満している、といったところだ。
自己というものは認識できるが、その境界がわからない。
ここではあらゆる情報が多次元的に交換される。かつて自分がいた世界の「時間」という概念は、ここでの奥行きの一つに過ぎない。だからアゴは、自分がかつていた世界を十五次元の立体として認識していた。
立体は、鋭利な刃物でヘタを切り取られたサツマイモのように、一方が超平面で終わっている。
その終わりの中に、かつて命よりも大切に思っていたものがいくつか含まれているはずだ。
アゴはそこに思いを至らせるべく、持てる力の全てを注いでいた。
だがそれは、一個の大腸菌の行く末を本気で案じようとするような試みだった。
石鹸で手洗いをするときに、そこに含まれる悲劇に思いを寄せるだろうか。
遊んでいたゲームのセーブデータを消去するときに、そこにある大虐殺を真剣に受け止めるだろうか。
水素原子から電子が飛び出していく破局を、心から悲しむことができるだろうか。
アゴは茫然とした。
そこに何の悲しみも、痛みも、感じなかったからだ。
「無駄な試みだ」
ルダが、勝ち誇りもせずにそう伝えてきた。
「私たちには、彼らに感情移入することができない。隔絶されているからだ。私たちは自らの機能を極限まで削除したコピーを作ることでしか、あの世界と真の交感を持つことができない。そしてそのコピーに対してもまた、私たちは関心を持つことが難しい」
アゴはルダの言葉を理解しつつ、未だ諦める事なく立体を凝視し続けていた。
優には無数のノードが連結しており、それらをたぐるだけで濁流のような情報が流れ込んでくる。そこには、かつて自分と戦った少女の顔もあった。
優の最期を知ることでそれを終えたが、心が動かない。
「私は自分を極限まで簡略化したコピーをあの世界に送り込んで追跡し、コピーが感じるものを自らの思考から類推しようとした。だがそれも無駄な試みだった。劣化しすぎた存在の思考など理解しようもない」
アゴはここに来てから初めて、意識をルダに向けた。
「・・・今ならアンタの気持ちもわかる。なんであの「関心すら沸かない」世界に、そんなクソ面倒なちょっかいをかけたのか、その理由も。この世界は死んでるも同然だわ。皆が完全にお互いを理解し、何の誤解もなく完璧に溶け合ってしまっている。この宇宙の秘密はすべて暴かれていて、発見も冒険も存在しない。こんなもん墓場と同じよ。アンタみたいな変わり者には、耐えられないでしょうね。だから仲間を作ろうとした」
「そうだ。私程度には変わり者で、私とは違う経験をした者。残念ながら拒まれてしまったが」
「で、その代わりがアタシ」
「そうだ」
会話は、儀礼のようなものだ。よほど強固な壁を作らない限り、強い決心は相手に全て伝わってしまう。
だから、ルダはこう言った。
「・・・未来を変えることはたやすい。創造する・・・付け足すだけでよいのだから。だが完了してしまった世界の構造を矛盾なく変えるということは、あの世界を無限数作り出すことと変わらない力が必要だ。君という存在の全てが必要になるだろう」
「それじゃ足らないでしょ。アンタの一部をもらうわよ」
「つまらない物のために私に犠牲を払えと」
ルダはすこし笑ってから、自分でも驚いたようだった。
「久しぶりに本心から笑うことができた。・・・君のおかげだ」
「代金は安くなかったわね」
アゴは笑いもせずにそう答える。
「・・・教えてくれ。君はもう、あの世界に何の感慨も、執着も持てないはずだ」
アゴはそれに肯定の思考で答えた。
「ではなぜ、こんな事をする」
ルダの言葉と共に、それはちっぽけな細菌を助けるために自らの命を捨てる人間のようなものだ、という意味合いの思考が伝わってくる。
責めるのではなく、単純な疑念として。
確かに。アゴは少しばかり戸惑いながら、自分を衝き動かす何かを探った。
ようやくその正体に行き着いた彼は、安堵しつつルダに答えを告げた。
「言葉を覚えてたからよ。アタシがあの世界に呼ばれたことには意味があるって、アタシは彼に言ったの。ここに助けとして呼ばれたはずなんだって。今はその言葉になんの感情も浮かばないけど、でも、きっとその言葉を果たすべきなんだろうって思う。アタシは自分の言葉を信じる」
ルダは再び微笑んだようだった。
「・・・そうか」
その言葉を終わりに、ルダはかつてアゴがいた宇宙に意識を向けた。
「どの時点を改変するつもりだ。初期であればあるほど、改変に必要なエネルギーは少なくなるが」
アゴは即答した。
「アタシはあの人たちを「作り変える」つもりなんて、これっぽっちもない。それは助けとは言わない。アタシは、「なかった物」をたった一つだけ付け足すつもり」
「なるほど・・・難儀なものだ。ドア一枚作るだけで、宇宙が無限個数作り出せるエネルギーを消費するのだから」
ルダは苦笑した。
「では、これで別れだな」
「そうね。まあ、少しの間だけでも神様になれたのは面白い体験だったわ。ここにずっといるなんて御免だけどね。ぞっとするわ」
その言葉に、ルダはうなずいた。
「それは理解できる」
ルダは少しばかり心を閉ざしてから、再びアゴに言った。
「私は、つまらない物のために私の一部を差し出すのではない。わずかな間でも隣人となってくれた君のためにそうするのだ。君の決断を尊重する」
「アンタ、あの世界で見たアンタとは別人ねぇ。・・・感謝しないわよ」
アゴはそう言ってから少しばかり考えを巡らせ、こう付け加えた。
「アンタみたいなのでも、最期に誰かがいるのは良いことね」




