*8*
百年が過ぎた。
今日もまた翳はひとり、回廊を歩く。
百年経てば老婆になるどころか墓に入っていて当然だが、その姿はみずみずしいままだった。
着ている黄色いパジャマには、電車の模様が散りばめられている。趣味もまた成長していない。
一方で、変化が全くないわけではなかった。短かかった薄い色の髪は緩やかなウェーブを描いて膝の高さまで伸び、蔓延り放題の前髪も、面倒だからと頭の上にまとめてゴムで縛ってある。
ツバキ曰く、歳を取らないのはルールでそう決めたから。だそうだ。
色々と思うところがあるが、お陰でこうして優を探し続けていられる。でもどうせなら、髪や爪が伸びるのも止めてくれれば良かったのに。視界にかかる長い髪が邪魔だ。
そんなわけで実感の乏しい年月ではあったが、百年は百年だ。
ちゃんと、食べてるのかな。
いま、何をしてるんだろう。
会ったら、何て言おう。
二人で最初にどこに行って、何をしよう。
頭の中は、ずっと優の事で一杯だ。
深刻な事は考えないように頑張ってきた。
それでも、脳裏をよぎる映像に息ができなくなったり、胸を突き破るような不安で震えが止まらなくなる事がある。
眠る時が一番怖い。夜を徹して扉を開け続ける事は珍しくなかった。
そんな日々が、いつ終わるのかも分からずに過ぎていく。
今、彼女の両腕には、優が作った例の「悲恋の兜」が大事に抱えられている。百年を経て、元々錆びていた箇所は傷みが激しい。ヘルメットの方は風見鶏の付け根が怪しかった。壊れる事が怖くて被りっぱなしには出来ない。
立ち止まった翳は、ヘルメットを慎重に抱え直すと、目の前にある何の変哲もない木製のドアのノブに手を置いた。
今日は、いつもと少しだけ違う日だった。
この扉の隣には、翳が最初に開けた扉が並んでいる。
百年かけて最初に戻ってきたのだ。
だから、これが最後の扉だ。
だが、翳には何の感慨もない。
もしこの扉の向こうに彼がいなくても、最初の扉からもう一度始めるだけだ。
たくさんの扉の中のひとつ。ただそれだけ。
翳は気負わぬよう意識しながら、ノブをゆっくりとひねった。隙間から風が吹き込み、彼女の長い髪をなびかせる。
きしみと共に開いた扉の向こうは、たおやかに波打つ一面の草原だった。鼻腔を香木のような匂いが通り抜ける。草はラベンダーに似た鮮やかな紫色で、互いに擦れあって海のさざ波の如き音を反響させている。
素足で、冷たい草の上に立つ。
翳は澄んだ空気を深呼吸してから、強く青い日光に顔をしかめつつ脇に抱えたヘルメットを頭に乗せた。そして両手に手鏡をきつく握りしめ、目を閉じてもう一度深呼吸をする。
草のざわめきの中で祈る。いつものように。
祈りながら怯えたように薄く目を開いていく。
震える鏡に映っている頭上の風見鶏は、風に吹かれて回っていた。本来の用途通りに。翳は、その様子を無表情に眺めた。
ここに優はいない。
彼女はヘルメットを脱ぐと、力無く座り込んだ。
何も感じない。
何も思わない。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと気配を感じた翳は、虚ろな瞳を背後に向けた。
赤い浴衣を乱雑に纏い、黒髪を大きな団子に結い上げたツバキが、古びた小屋を背景にしてこちらを見下ろしていた。
暫く視線を絡ませたあと、翳は魂が抜けたかのような動きで顔を前に戻した。
それからまた、草のざわめきだけが響く長い沈黙。
ひときわ強い風が吹き、二人の髪と服を揺らす。
ツバキはささやいた。
「頑張ったな」
草の上に膝を折ると、彼女は背中から翳を抱き寄せた。
頬が重なる。翳のそれは、気付かないうちに涙でぐしゃぐしゃだった。
大丈夫だと思っていたのに。
胸の奥から嗚咽が沸き上がってきて止まらない。ツバキの腕の中で、翳は激しく身を震わせ始めた。
百年の間に溜め込んだ涙が、堰を切ったように溢れ出てくる。
彼は、手の届かない所に行ってしまった。
私がどれだけこの回廊をさ迷い続けようと、もう、会えない。
心が、深い谷へと転がり落ちようとしている。
*
陽が傾きはじめていた。
草原は小豆色に染まり、雲ひとつない空は緋色に変わっている。
ツバキに抱かれて座りながら、泣き疲れた翳は目を閉じていた。しおれてはいるものの、その表情は安らいでいる。
谷の淵で、なんとか踏みとどまった。
背中の温もりがなければ、多分落ちてしまっていたはずだ。
「・・・どういう偶然だろうな。ここは多分、オレのもう一つの故郷だ」
背中から、ツバキの万感が込められたささやきが響く。
「ここで生まれて、全部失って。自暴自棄になったオレは、考えられる全ての無茶をやった。その後は死肉漁りから逃げながら、あちこちの宇宙を放浪の身だ。しまいにゃ地獄と呼ばれる次元で文字通りの地獄を楽しんでた。あれがオレの本性なんだろうな」
ツバキは優しい笑みを浮かべ、自然な仕草でそっと、翳の頭を撫でる。
「お前はそんなオレより、ずっと無茶苦茶だ。・・・そばで見ててやらねぇとな」
翳はツバキの含み笑いを聞くと目を見開き、急激に顔を赤らめ始めた。それまでしっかりとすがり付いていたツバキの腕を払いのけ、拗ねた声で言う。
「子供扱いしないでって、いつも言ってる!」
「まーたかよ、そんな風に思ってねぇっつってるだろ、毎回よ」
ツバキは苦笑を浮かべつつ、浴衣のすそを払って立ち上がった。
「あっちじゃえらい時間が過ぎてるぞ。さっさと戻れ」
そう言って踵を返すと、見上げる翳の前であっさりと扉をくぐり、回廊を歩き始める。
「子供扱いしてないなんて、ウソだ。今だって」
追うように扉を抜けた翳のその言葉は、乱暴に肩に乗せられたツバキの手で遮られた。抗議すべく視線を向けた翳は、彼女の表情に気勢を削がれた。
ツバキが凝視する先を追う。
隣にある、なめらかな材質で出来た白い扉が目に入った。そこに黒く大きな文字で何かが書かれているように見える。
いや、そもそも最初の扉は緑に塗られた木製だったはずだ。こんな扉は記憶にない。
翳はそろそろと、なぜか音を立てないように扉に近付きつつ文字を見つめる。
日本語だ。
一瞬固まったあとで、転がるように駆け寄る。
視界が狭まる。鼓動の音が爆音のようにうるさい。
脇から覗きこむツバキと共に、そこに書かれた簡潔な文章に血走った目を走らせる。読み終えた直後、二人は顔を見合わせることすらなく、我先にと扉を開けてその中に駆け込んでいった。




