*10*
二人は森の中の空き地に走り出た。
これほど静かな山の中だ。つららに言われなくとも、何かがこちらに向かってきているのが分かる。ツバキは深く呼吸すると、つららを背後に守るように木刀を構えた。
ふと、その背中に温かい何かが触れた。つららの手だろう。
「心配すんな!優なんぞすぐにボコって終わらせてやる!」
「早合点するな、怯えたりなんぞせんわ。お前と儂の間に縁を結んでおるのよ」
「言ってた肉体強化のアレか!」
「儂の精神力が続く限り、お前の能力は全て底上げされる。それでもさらにもう一踏ん張りせねばならんときは、この言葉を唱えるがよい」
つららは息を吸い込み、そして叫んだ。
「つららー!オレだー!結婚してくれー!」
ツバキは前を向いたまま無言だった。
「心の底から叫べよ。そうすれば、儂の力が一気にお前に注ぎ込む。その凄まじさたるや・・・」
「お前、アホだろ。こんな時に何言ってんだ」
「いや、大真面目だぞ。この術は儂の気持ちの高まりも重要なのだ」
「はあ?」
「儂の夢は決まった。この全知識、全方術を総動員していつかお前を男に変え、そのあと恋仲になる。試みが成就する頃にはお互い丁度よい年齢になっておろう」
ツバキは絶句した。同性の子供に告白されるなんて微笑ましい話だが、こいつは本当にやろうとしかねないので気色悪い。しかも厚かましい事に、自分ではなくこちらの性別を変えると抜かす。このガキは優にくれてやって、さっさと逃げるべきかもしれん・・・そういや、あいつはなぜこんなのを追いかけている。変態か。
辟易している顔のツバキの背後から、つららの真剣な声が響いた。
「来るぞ。儂は術で身を隠すので気にせず戦え。いいか、殺すつもりでかかれよ。死に至るほどの傷でも儂なら治療できる」
つららが背中から手を離した直後、森から灰色の塊がゴムボールのように弾みつつ躍り出てきた。あまりの速さに雪を踏む足音がつながって聞こえる。普段のツバキに捉えることなど不可能な素早さだったが、そんな絶望的な状況を前に彼女の表情は輝いていた。
つららの言葉は本当だった。自分の体に巨大なエンジンが積み込まれたかのような充実感だ。強化された動体視力で世界の全てが明晰に見える。
「少し我慢してくれ、優。今助けてやる」
地面に叩き込んだ足で雪を爆散させ、ツバキは一気に間合いを詰めた。致命傷とならぬよう細心の注意を払った一撃が、灰色の影の胴体を痛打する。彼女はそのまま体を丸め、体当たりの状態で影ともつれ合いながら雪の上を転がると、距離を取って再び構える。
手ごたえを感じながら目の前に倒れているものを見た瞬間、ツバキの表情が固まった。
ツバキが一撃を浴びせたものは、優ではなかった。
それは大人程度の大きさの、汚れた雪でできた人形だった。頭に相当する部分には猿の面が被せられている。ツバキの太刀を浴びた胴体からは、ボロボロと雪の固まりがこぼれ落ちていた。
優どころか、尋常な生き物ですらない。
「・・・なんだこりゃあ」
呆然とする彼女の視界に、さらに2体の雪猿が森から出てくる光景が映った。
その上、さきほど胴を叩き割った雪猿は、何の痛痒も感じていない様子で再び立ち上がろうとしている。
絶望的な光景だ。ツバキは全くためらわずに切り札を切った。
「つららぁあー!!オレだぁーーー!!!結っっ婚してくれぇえええ!!」
ツバキは絶叫し、その直後に流れ込んで来た力に体が張り裂けそうになった。彼女は震えながらその全てを両足に注ぎ込み、起き上がったばかりの雪猿めがけて跳躍した。
常人には及びもつかない距離から放たれた剣が、防御の姿勢を取った雪猿の左腕を粉砕した。だがそれは雪猿の次の攻撃への布石だった。待ち構えていた雪猿の無事な腕が、ツバキに重々しく叩きつけられた。
ツバキは並の人間ならば即死する衝撃を受けつつ、つばぜり合いまで持ち込んで今まで負けたことはないという祖母の言葉を思い出していた。
彼女の一族が使う剣術は、高名な流派のそれと違ってむせ返るほど泥臭いものだった。もちろん剣で相手を倒すことにも研鑽を積むのだが、それと同じくらい重視しているのが肘、柄頭、膝などによる打撃だった。切り結んでグダグダになったらしめたもの、そこからが本領発揮のなり振り構わぬ戦い方を旨としている。
ツバキは腕の下で呟いた。
「この距離なら負けは無い」
ただし、この力があれば。高揚感と同時に、自分の非力さを突き付けられる気分だった。
叩きつけられた雪猿の右腕が、途中から折れて落ちた。
その下で、ツバキは柄頭を真上に突き出して立っていた。彼女はそのまま体を翻すと、遠心力と重力を乗せた肘を至近距離で叩き込んだ。
肘が深くめり込み、面が砕けた。直後、樹木に積もった雪が落ちるように雪猿の体が崩壊した。
ツバキは立ち上がる雪煙を避けるように体を捌きつつ、続く戦いでの勝利を確信していた。
面を破壊すればいいのか。分かりやすい。彼女は血振りで雪を木刀から弾き飛ばすと、踊りかかってくる新たな2体に向かって駆けはじめた。
その時だった。
彼女は、踏み出した足の重さと遅さに驚愕した。
魔法の時間は終わっていた。彼女はいつもの鈍重な肉体に再び閉じ込められていた。
ツバキの視界の中で、近づいてくる雪猿の輪郭がブレた。
「ひぅ」
自分の上げた奇妙な声をまるで他人のそれのように聞きながら、彼女は自分が滅茶苦茶に回転していることを感じていた。
次に目を開けたときには、彼女はいつの間にか雪の上に横たわっていた。痙攣する瞼の向こうで、2体の雪猿がゆっくりとこちらに歩いてくる。
生き物でもないくせに、余裕ぶっこいてやがる。
ツバキは悪態をつきながら、唯一自由になる視線を動かす。
離れた場所で倒れているつららの姿が見えた。力を使い果たしてしまったらしい。ツバキは自分の非力さを呪った。
雪猿が目の前に立ち、腕を振り上げた。ツバキは死を覚悟した。
恐ろしく長い時間が経過し、そして物凄い衝撃が上から襲ってきた。
ツバキは力の限り瞼を閉じながら、自分の体に意識を走らせる。
死んでいない。生きている。
もう一度、恐怖のあまり叫びたくなるような衝撃。
それでも自分は生きていて、温かな何かが自分を覆っているのを感じている。
突如、体が抱え上げられた。ツバキは薄く目を開いて見上げた。
彼女は息を飲んだ。なんで。いつの間に。
血だらけになりながら、前を見つめる優の顔がすぐそこにあった。
その顔は昨晩のままだった。人の知性を感じない。しかし、その目には腕の中のものを守ろうとする意志が強く宿っていた。
転げるように走ったあと、優はツバキを雪の上に乱暴に下ろした。見るとわずかに雪猿との距離を稼ぐことに成功している。実のところ雪猿が全力で追っていないだけだとしても、それは貴重な距離だった。
優は犬のように手足で地面を掻きながら、人間離れした速度で雪猿達に躍りかかって行った。彼は一体の頭にかじりつくが、簡単に引き剥がされると叩き伏せられ、ギャンと鳴きながら地面を転がる。それでも立ち上がると別の一体の足に食らいつき、鈍い音と共に蹴り上げられて高く舞い上がったあと、激しく地面に叩きつけられた。
優はそれでも折れなかった。彼は口から多量の血を流して再び立ち上がると、よたよたと2体に近づいていく。ツバキは嗚咽を漏らしながら叫んだ。
「つらら・・・つらら!!お前の言う事をなんでも聞く!だからもう一度、少しだけ力を貸してくれ!!」
「まあ待て」
声に驚いて、視線を向ける。
つららが、仰向けに横たわりながらクッキーをほおばっていた。
「おい・・・おいコラ・・・てめえ何呑気に食ってんだ」
「全力で回復しておるのだ。ちょっと待て」
「待てるか・・・今すぐ力をよこせ。さもねぇと・・・」
ただならぬ気配を感じたつららはそろそろと頭を巡らせ、ツバキの顔を盗み見た。その瞳が恐怖のあまり大きく見開かれる。
ツバキは全身に再び力が注がれるのを感じた。彼女は煮えたぎる力と怒りを感じながら立ち上がると、転がっている木刀に鋭い視線を向けた。




