*8*
深夜。
寝袋に包まれているツバキは、疲れのあまり深く眠っていた。それでも目を覚ます事が出来たのは、やはり彼女の感覚が鋭いためだろう。急な覚醒で寝ぼけている彼女は、顔をしかめながら闇のなかに目を向けた。
ぼんやりとした黒い輪郭が、荒い息遣いをしながらツバキに覆い被さっていた。
まだ現実なのか夢なのか判別出来ていない彼女は、寝袋の中で伸びをした。
「んん・・・優かぁ・・・?」
人影の顔であろう部分を見上げながらその名前を口にしたとたん、閃きがツバキの脳裏に走った。それは彼女の眠気を跡形もなく吹き飛ばす。
夜這い。
夜這いだろこれは。
激しい狼狽に顔が一瞬で熱くなる。彼女は寝袋のなかで体を固くしながら、頑張って作った険しい眼で闇をにらみつけた。
「お・・・おおお、おい!あのな、こういう事は結婚してからじゃないと・・・つーかお前好きな奴がいるだろが!」
直後、影はその両腕を伸ばしてツバキの寝袋の胸のあたりをつかみ、包装紙でも剥がすように一気に破り去った。
ツバキは年相応の少女らしい悲鳴を上げた。彼女は覆い被さっているものの体の下から転がり出ると、テントの入り口にあるファスナーを奇跡的に探り当て、それを一気に引き上げた。
靴下のまま雪原に躍り出ると、ツバキは激しい怒りに身を震わせながら振り返った。
あークソ!!あんな悲鳴を上げるなんて!!
昼間の仕返しのつもりなんだろうが、やり過ぎもいいところだ。泣いて謝るくらいキツい目に遭わせて反省させるしかない。
煮え湯を飲ませてやる!肩をいからせて決意するツバキの目の前で、テントから人影が這い出てきた。
怒りが消散するほど、ツバキは呆然とした。
人影は、寝る前に見た優の姿をしていた。
だかツバキの目に、それは獣にしか見えなかった。
獣は月明かりを浴びて、深い前傾姿勢でこちらを見ている。その顔に人間らしい表情はない。ただ淫らな欲望があるのみだ。まるで邪悪な何かが優の中身を食いつくし、その皮を被っているかのようだった。
「ツバキ」
獣が声を出した。犬が喋るとこんな感じなのだろう。
ツバキはそれに答えることも、動くこともできなかった。
「ぼくはもう、だめだ・・・ご・・・め・・・」
獣は絞り出すようにそう告げると、恐るべき迅さで雪原を走り、木々の間に跳躍して消えた。
後には、立ち尽くすツバキだけが残された。
*
早朝の峠道。前夜に除雪でもされたのか、あれほど雪が残っていたこの道に一片も雪が残っていない。
その道を、三台の車が走っていた。
田舎の狭い峠道には場違いとしか言いようがない車種だ。
外国製の大きな車で、どれも黒塗り。重要人物が乗っていると宣伝するような車列だった。
その真ん中を走る車の後部座席で、華美な広い空間を持て余すように一人の少女が座っていた。年齢は10か、それに届いていない位に見える。これまた場に似つかわしくなく、安っぽいピンク色のダウンベストとデニムパンツ、スニーカーという出で立ちだった。瑠璃色に輝く髪も適当なおかっぱに切られたままで、さほど手入れが行き届いていない。
たが彼女の顔立ちや座る姿勢には、質素な身なり程度では損ね難い高貴さが漂っていた。その大きな藍色の瞳には、窓の外を流れていく山々が映っている。美しい景色だが、彼女は無表情だった。
急に、その景色が止まった。
激しい衝撃音と共に前と後の車が激しく揺れ、直後にドアが開く音と足音が慌ただしく響きはじめた。少女の車からも一人、運転席の男を残して助手席から出ていく。
銃声。
少女は窓の外に目を向けた。前の車の向こうで背広姿の男たちが走り回っている。
運転手は突然、止まっている前車をすり抜けて車を走らせ始めた。直後にそのフロントウインドウに何かが叩きつけられ、車は視界を失ってガードレールに突き刺さった。エアバッグが車内に充満する。
「逃げろ!!早く!!」
運転席の男が振り向きながら叫んだ。
リアシートに転がっていた少女は怯えの表情も見せずにシートの上を横滑りすると、ドアノブを引いた。衝撃でロックが解除されたらしく、それはあっさりと開いた。彼女はアスファルトの上に降り立つと走り始めた。
停まっている別の車両のボンネットが、巨大な鉄玉でも落とされたかのように凹んでいた。さらに走ると横たわる人影が視界の端に映るが、彼女は表情ひとつ変えない。
彼女は道の脇にある獣道にたどり着き、一瞬だけ振り返った。
その瞳に、車列の上を跳躍する一匹の獣の姿が映る。人間くらいの大きさの猿のように見えるが、あまりに速すぎて姿を判別できない。
彼女は平然と視線を獣道に戻し、走り始めた。
*
ツバキは、夜を徹して優の姿を探した。
タフなツバキとはいえ、さすがに疲労の色が顔に浮かんでいる。轍に足をとられ転倒した彼女は、雪混じりの泥濘に両手と膝を突いた。泥から冷気が伝わってくるのも構わず、彼女はそのまま泣きじゃくり始めた。瞳から大粒の涙がこぼれ、地面に落ちていく。
「優・・・」
昨日の優は確かにおかしかった。いつもの朗らかさや優しさが感じられない瞬間が何度もあった。しかし夜中に見た彼の顔はそんなものでない。完全に別人になってしまっていた。
ツバキは優の姿やその人間離れした動きを夢ではないかと疑ったが、上着と靴を探すためにテントに戻った時に、その希望も失われた。ランタンの灯りが照らした寝袋は、尋常ではない力で引き裂かれていた。
何か、計り知れない災いが優の身に起きている。心配のあまりおかしくなりそうだった。嗚咽が漏れる度にもっと胸が痛くなる。
必死に足跡を追跡したつもりだったが、所詮は素人のやる事だった。もう完全に見失っていた。
もはや、自分の力ではどうしようもない。そう悟った時、彼女は警察という存在に今更ながら思い当たった。慌てた彼女は泥だらけの手のままスマホを探してポケットをまさぐった。腹立たしいことに、テントに置いてきてしまっている。
・・・こんなところで泣いている場合じゃない。
ツバキは立ち上がった。直後、彼女は目を大きく見開いた。かなり先だが、谷あいにアスファルトが見える。彼女は走り出した。その時だった。
「やめておけ」
突然場違いな女の子の声が背後から響き、ツバキは息を飲んで振り返った。




