4-2 何もしなくても、おめでとう。
◇
泥のように重く暗い闇の中で。
僕は歩いていた。
周りに誰もいない。静かな場所だ。
何も思い出せない。うまく考えられない。
頭の中に霧が立ち込めているような感じだ。
ふと、子供の泣き声が聞こえた。
怒られないように、気づかれないように、こっそりと泣く声。
こういう泣き方を、僕は知っている。
施設で働いていた頃、何人もの子が同じように泣いていた。胸が、きゅっと締め付けられる。
抱きしめてあげないと。
足が自然と泣き声のほうへ向かう。
暗い空間のなか、小さな女の子が膝を抱えて静かに泣いていた。
たぶん、ベッドの上に座って泣いている。
「どうしたの?」
声をかけると、女の子はビクッと肩を震わせた。
それから、ゆっくり顔を上げた。
ビックリするほど綺麗な子だった。
透き通るような白い肌に、長い睫毛。
整いすぎた顔立ちが少し人形めいて見える。
この顔に、どこか見覚えがある。僕が大好きな人に。でも誰なのかは、うまく思い出せない。
泣きはらした赤い目に僕まで悲しくなった。
「おじさん、誰ですか」
おじさん。
……僕は、おじさん、だったっけ?
そもそも。
僕は誰だろう?
「僕は……」
後が続かない。
名前を思い出そうとして頭の中をまさぐる。
水底に沈んだ何かを指先で探るような感覚。
何かに触った気がする。でも、掴めない。
「……僕も、わかんないや」
正直に言ったら女の子が、ぷっと吹き出した。
笑った顔は、ちゃんと幼く見えた。
「ここはどこか知ってる?」
僕も聞いた。
「ここは、私の部屋よ」
女の子が答えた瞬間、周りの黒い空間が、すうっと消えていった。
気づくと、僕はフローリングの床に立っていた。
僕は、戸惑いながら部屋を見渡した。
温かみの無い部屋だった。
何も貼られていない白い壁。
本棚には、学習教材の絵本や図鑑ばかり並ぶ。
本当に子供向けの、ストーリーのある絵本は、1冊も見当たらない。
女の子なら欲しがるだろう人形がない。ぬいぐるみがない。
おもちゃはある。だけど、地球儀、天秤、知育パズル。すべて、勉強の延長線上にあるものだった。
ウサギ柄の可愛らしいピンクのシーツが、この部屋で、唯一、小さな女の子らしいものだった。
僕の視線に気づいた女の子が、ニコリと微笑んだ。
「これ?このシーツは私の宝物なの。3歳の誕生日までに、1年生の教科書を終えられたから。ママが買ってくれたのよ」
「う、うん。良かったね」
この子はシーツ1枚を宝物と言った。
胸の中に湿った冷たいものが広がっていく。
「きみ、いくつなの?」
「私は4歳よ。今日、4歳になったの」
ずいぶん大人びた話し方だ。
4歳とは思えない。
「そうなんだ。お誕生日おめでとう!」
女の子が首をかしげた。
本当に、心の底から不思議そうな顔だった。
「どうして? どうしておめでとうなの?」
「え、どうしてって。お誕生日だよ」
僕は戸惑った。
「おめでとうって、良いことがあったときに言うんでしょう?」
「うん。そうだね。誕生日は良いことでしょ?」
女の子は首を振った。
「でも、ママは誕生日が来て残念だって。私が4年生の教科書を終わらせられなかったから。だから部屋で勉強してなさいって」
僕は息を呑んだ。
「今、4年生って言ったけど、どういうこと?」
「4年生は、小学4年生よ。中学校も高校も4年生まで無いから。大学は確かに4年生まであるけど」
女の子は、なんで当たり前のことを聞くの?という顔をしていた。
だけど、まだ4歳だよね?
驚きを通り越して違和感しかなかった。
「4歳なのに、小学4年生の教科書を勉強してるの?」
「うん。ママは、私は特別だって言ってた。3倍速の天才なんだって。だから、私は頑張らないと勿体ないの」
「でも、泣いてた……」
「だって、私は頑張らないといけないのに、頑張れなかったから。私のためなのに」
女の子は膝を抱えたまま、小さな指でパジャマをぎゅっと握った。
手の関節が白くなっている。
施設で色々な子供を見てきた。
殴られる子。無視される子。捨てられる子。
でも、このパターンは無かった。
この子は、自分のお母さんから「頑張りなさい。それがあなたのためなの」と言われ続けている。
お母さんの愛だから逃げ道がない。
他人を恨むこともできない。
頑張れない自分が悪いと思いこんでいる。
胸が痛かった。
「おじさん、悲しいの?」
女の子が心配そうに僕を見上げた。
この心配顔に見覚えがある気がした。
すこし困ったように寄せられた眉。
じっと相手を見つめる、優しい目元。
また誰かの顔と重なる。大切な誰かと。
誰だろう。頭の中に霧がかかって思い出せない。
「泣く? ティッシュいる?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
施設の子に良くいたみたいに、怯えながら大人の顔色を伺ってるわけじゃない。
純粋な優しさから、気を使ってくれている。
自分があんなに泣いていたのに、見知らぬおじさんを心配してくれる。
「ね、おじさんの手を握ってもいい?」
「う、うん」
小さな手が僕の手を握った。
「元気パワー!」
思わず吹き出した。
「ありがと。僕からも元気パワー!」
「ありがとう!」
女の子が笑顔になってくれた。
きっと、とんでもなく頭の良い子なのだろう。
お母さんが期待をかけ過ぎてしまうほどに。
たぶん、すごく真面目な子でもある。親の期待に応えようと、ひたすら頑張ってしまうほどに。
その期待がおかしいと思うこともなく。
僕は、少し屈んで女の子と目線を合わせた。
「お誕生日は君が生まれてきてくれたことを祝うんだ。何もしなくても、おめでとう、なんだよ」
「ふーん。そうなんだ」
女の子は「何もしなくても、おめでとう」という言葉を不思議そうに繰り返した。
その後、何度か瞬きして目元の涙の跡を小さな手で拭った。
「だから僕は、誕生日おめでとう、と言いたい。だって今日は、生まれてきてくれた日、そして生きていてくれた日なんだもの」
不思議そうな顔をする女の子に言葉を重ねる。
「今日は、良いことがあったんだよ。あらためて、お誕生日おめでとう」
「うん。ありがとう!」
女の子の表情が少しだけ明るくなった。
頬も少し血色が戻り、人形らしさが薄れる。
良かった。少しは助けになったのかな。
「なんだか、おじさんとはまた会える気がする」女の子が、ふっと言った。
予感を確かめるような、不思議な声だった。
「そう? 僕もまた会えたら嬉しいな」
「でもね、おじさんは、そろそろ寝ないと」
「え?」
瞼が急速に重くなってくる。
何だか、自分がベッドの上で寝てるみたいだ。
「ね。君の名前は? 僕は颯太」
せめて、この子の名前を知りたい。
女の子は何かを答えてくれた気がする。
小さな柔らかい音だった。
でも、聞き取れなかった。
あの子の気配も、もう無い。
ただ、声の余韻だけが耳の奥に温かく残った。
あの子と、また会えると良いな。
やがて僕は再び微睡みの中へと沈んでいった。




