4-1 初めての「愛してます」
◎
「どうした。顔が真っ青だぞ」
横から聞こえた声に振り向く。
グラハムがタブレットを脇に挟んで立っていた。
彼は、経営者アヤカをよく見ている。
「私のパートナーが、倒れたそうです」
「どこにいる」
「日本です」
グラハムがピタリと動きを止めた。
「アヤカ。駄目だ」
声が、いつもよりずっと低い。
「今から日本に行くのは、絶対に駄目だぞ。ショー・マスト・ゴー・オンだ。明日のイベントが終わってからにしてくれ。それか、こっちに運んできてもらえ」
グラハムは、アヤカが日本に戻ろうとすれば物理的にでも止める覚悟だ。それが伝わってくる。
「彼は職場で倒れて、病院に運ばれたようです。安否が分かりません」
「冷静になれ。基調講演は、絶対にここでやってもらわないといけない。ホログラムじゃなくて生身でな」
「ええ。分かってます」
分かっては、いるのだ。明日、仮面の起業家アヤカはステージに立たなければならない。
会社のためでもあり、社員のためでもあり、これまで信じてアヤカを応援してきてくれた全ての人のためでもある。
ショー・マスト・ゴー・オン。
もう舞台の幕は開いている。
最後まで続けなければ。
それでも。もし、颯太さんが危篤なら。
できるだけ近くにいたかった。
本当に危なくてお別れが近づくとき、ご家族にすがりついてでも頼んで、颯太さんの手を握りたかった。
息が浅くなる。水を一口飲んだ。
スマホが震えた。
飯田穂乃花: さっき、お医者様から説明がありました。今のところは過労で倒れただけ
飯田穂乃花: 頭を打ってるから入院して経過観察が必要。少なくとも1日
飯田穂乃花: 意識が戻ればほとんど大丈夫だけど、まだ戻ってないみたい
メッセージを2回ずつ読んだ。
「過労で倒れただけ」「経過観察」「ほとんど大丈夫」。
言葉を一つずつ、頭の中で確かめていく。
もしかして、しばらく大丈夫?
「アイちゃん?」
「医療専門AIにも照会したけど、アヤカの見立て通りだと思う。今夜が峠、みたいな状況じゃない」
「そう……」
大丈夫。たぶん、大丈夫。
頭の中の非常灯のような赤い点滅が落ち着いていく。
水を飲もうとしたら、飲みきっていた。
目を閉じて、息を吐く。
決めた。
今日は颯太さんのもとへ帰らない。
明日はカンファレンスをしっかりとやる。
そして、終わったらすぐ、颯太さんに会いに行く。
決めた瞬間、不思議と背筋が伸びた。
細川彩夏: ありがとうございます。早く目を覚まして欲しいです
細川彩夏: 明後日、そちらへ伺ってもよろしいでしょうか?颯太さんの近くにいてあげたいんです
送った。
ドキドキする。
しばらく待って、返信が来た。
飯田穂乃花: 良いですよ。お待ちしてます
ゆっくりと息を吐く。一歩前進だった。
よし。
明日のカンファレンスが終わったら、夜のうちに発つ。その後、颯太さんのご家族と合流して、颯太さんのもとへ。
顔を上げる。
「明日、終わったら、すぐに日本に飛びます」
グラハムが、あからさまにホッとした。
「了解した。終了後の動線はこちらで全部押さえる。アヤカは明日のステージのことだけ考えてくれ」
「ありがとう」
自宅に戻った。午後7時だ。こんな早い時間に自宅に帰るのは何か月ぶりだったろうか。
シャワーを浴びて、化粧を落とし、髪を乾かす。
鏡の中の自分は、思ったよりも疲れた顔をしていた。
颯太さんにメッセージを送った。
もちろん、既読にならない。
祈りに近い。
おこめ: 明後日、そっちに行きます。ちゃんと目を覚まして待っていてくださいね。愛してます。
送ってから、少し恥ずかしくなった。
だって「愛してます」と表現したのは初めてだ。
「好きです」は何回も言ってきたけど。
颯太さんを失うかもしれないことが、こんなに怖いなんて。
この気持ちは、他の言葉で表現できなかった。
颯太さんが目を覚ましたとき、これを最初に読んでほしい。そしてできれば、嬉しいと感じてほしい。
穂乃花さん達も病院を出た、という連絡が来た。
容態が急変しない限り続報はない。
連絡がないこと、それ自体がお知らせなのだ。
そう自分に言い聞かせる。
家事ロボットのロボくんに、明日起きるべき時間を伝えた。そして、引き出しの奥から強めの睡眠薬を取り出した。
普段は飲まないようにしている。
でも今日は、徹夜続きの頭と体を無理にでも休ませなければ。
明日のために。明後日のために。
新プロダクトのリリースまで、あと15時間だ。
規定量を飲む。電気を消して、ベッドの中で目を閉じた。
愛する颯太さんを思い浮かべる。
夕焼けに照らされて笑う颯太さん。
捕まえたアマガエルを見せてくれる颯太さん。
そして、私を優しくぎゅっと抱きしめてくれる颯太さん。
睡眠薬がゆっくりと、しかし確実に意識を暗くしていく。
颯太さんに今すぐ会いたい。手を握ってあげたい。
せめて夢のなかでも。




