3-22 ただの彼女。家族じゃない。
◇
今日は、朝から何か変だった。
まず、班長がいない。ライン変更の検証を一緒にやるはずだったのに、朝から別の現場に呼び出されちゃった。
どうするんだろうと思っていたら、昼休み明けに先輩の佐藤さんが近づいてきた。
以前、僕のアイデアを思いつきだと鼻で笑った、あの先輩だ。
「田中くん、ちょっと良い?」
「はい」
「今日、ライン変更の検証データ取りがあるんだけど、私はそっちの段取りで手が回らないのよ。悪いけど、この調味料の搬入を頼めるかしら」
「え!? でも検証は、僕が……」
「じゃ、あなたはチェックシートの書き方分かるの?」
分からなかった。
今日、班長に教えて貰う予定だった。
「分からないなら、田中くんはやれないでしょ。私がやってあげるって言ってるのよ。だから搬入、頼めるわよね?」
「はい……」
反論できなかった。
でも、佐藤さんが指さしたのは、資材の一次搬入エリアだ。そこには入荷したばかりの大量の調味料の段ボールや紙袋が積まれている。
1週間分の醤油、お酢、油、塩、砂糖など。工場サイズだから1個20キロを超える。
これらを衛生エリア内の保管庫に台車で持っていくのだけど、積み下ろしは人力だ。
重いし、普通は3人、忙しいときでも2人で手分けしてやっている。5往復はかかるだろう。
「あの、僕だけですか?」
「そうよ。他の人達は忙しいの。検証とか他のラインの手伝いとか。だからこれは、あなた一人でお願いね」
「……分かりました」
佐藤さんに言い切られると従うしかなかった。
これは、スーパーの品出しや物流倉庫が可愛く思えるレベルだ。
台車に資材を積む。
重い。本当にこれは、一人でやる作業じゃない。
何往復目かで、ふと時計を見た。
もう2時間が経っていた。
腕が震えている。全身が痛い。
まだある。だけど、あとちょっと。
あと一往復で終わる。
おこめさんの顔を思い浮かべた。
東京デート。パンダ。あのネックレス。
台車を押して、最後の折り返し。
グラリ!
足元が狂った。右足が何かに引っかかった感触。
コンクリートの床が目の前に迫る。
耳の上のあたりに、重い痛みが走る。
そのまま意識が途切れた。
◆◆◆
□ 颯太の姉、穂乃花の視点
仕事を上がってスマホを見ると、母さんから連絡が来ていた。颯太が職場で倒れて、病院に運ばれたらしい。
頼まれた着替えを持って、病院へ向かう。
車の外を、稲刈りの終わった田んぼが流れていく。
アクセルを踏む足に、知らず力がこもった。
大丈夫であってほしい。お願い。
待合室に入ると、不安そうに俯く母さんがいた。普段よりも一回り小さく見える。
「母さん、持ってきたよ」
「うん、ありがとう」
「颯太は?」
「まだ意識は戻ってないの。今のところ緊急手術とかはなくて、念のための検査って説明だったけど」
モヤモヤする言い方だった。
最近の颯太は、待望の彼女ができて幸せそうだった。
姉としても、ようやく颯太の魅力を分かってくれる人ができたと嬉しかった。
それなのに。
ようやく掴みかけた幸せの最中に、なんでこんなところで寝てるんだ、あんたは。
待合室の硬いソファにもたれて座る。
病院特有の消毒液の匂い。蛍光灯の白い光。
母さんの手を握ると、しっかり握り返された。
「ほのちゃん、ありがとうね」
「お姉ちゃんだもの」
穂乃花が3歳のとき、家にやってきた赤ちゃんの颯太は、小さな手で一生懸命に指を握ってきた。
あの日からずっと、弟を守って、鍛えて、応援してきた。
ふと、おこめさんのことが浮かぶ。
おこめさんは、颯太と付き合って半年に満たない彼女だ。
母さんも穂乃花も1回も会ったことがない。
だけど、颯太が見せてくれる写真の中で、おこめさんはいつも自然に笑っていた。
颯太も柔らかい顔で彼女を見つめていた。
あれは、ちゃんとお互いを好きな人の顔だ。
つい先週末も、颯太が疲れてるから心配だと遥香たちに伝えてくれたらしい。
「母さん。颯太の彼女にも知らせる?」
「おこめさん? そうね……」
◆◆◆
◎
カンファレンスの前日、最後のリハーサルを終えた。
何日も徹夜が続いているから、さすがにきつい。
舞台の上で休んでいるとメッセージが届いた。
颯太さんの親友達とのグループチャットだ。
気になって見る。
藤田大輝: 颯太のお姉さんから連絡があり、颯太が職場で倒れて救急車で運ばれました。意識はありません
息が止まりかけた。
救急車。意識がない。念のため2回読んだけど、残念ながら誤解の余地はなかった。
颯太さんのお姉様の連絡先も書いてあった。
今後に備えて、連絡してほしいとも書いてある。
今後?
颯太さんは危篤なのだろうか。
ペットボトルを持つ手が震えた。
最悪の想像が頭をよぎる。
全てを放り出して今から飛行機に飛び乗れば、今夜中には新潟に着ける。
お別れぐらいは、言えるかもしれない。
ステージ準備が騒がしく進むなか、ペットボトルの水を飲む。
冷静に考えられない。
「アイちゃん、颯太さんのお姉様に送る文面ドラフトして」
「了解!」
すぐドラフトしてくれた。
細川彩夏: 颯太さんとお付き合いさせていただいている彩夏と申します。颯太さんのお姉さま、はじめまして
細川彩夏: 藤田大輝さんから連絡をいただきました。ご連絡ありがとうございます。颯太さんは、大丈夫ですか
丁寧すぎないか。距離を置きすぎていないか。
適切なのかも分からない。
今は、どうしても冷静になれなかった。
アイちゃんを信じて送信する。
一口、水を飲んだ。
颯太さんが無事であってほしい。
ステージ上の照明が客席へと光を投げかけている。設営チームが、最後の装飾を運び込んでいる音が後ろから聞こえる。
頭の中では、もうプランを立てていた。
すぐにプライベートジェットを呼んで、色々無理すれば今夜中には新潟に着ける。
コストは問題じゃない。
問題は颯太さんに会えるかどうかだ。
「アイちゃん。新潟に行ったら、颯太さんに会える?」
「うーん……。難しいと思うよ。アヤカは、ただの彼女でしょ? 家族じゃない。家族か本人の同意がないと」
そうだよね。
自分は、まだ颯太さんと家族じゃない。婚約者ですらない。
颯太さんと交際をして半年もたたない、ただの彼女だ。
スマホを握りしめる。
プライベートジェットで最短で向かっても、そこで待っているのは立ち入れない病室だ。




