35話 選ばなくていい、ただ好きだから
翌朝。
結花は、一睡もできなかった。
昨夜の出来事が、頭から離れない。
『――好きなんだ』
その声が、何度もよみがえる。
唇に、まだ感触が残っている気がした。
かすかな酒の匂い。
熱を帯びた、赤い瞳。
思い出すたび、頬が熱くなる。
ユーリスさんが……?
本当に、私を……?
落ち着かないまま、襖を開けた。
朝の空気が、ひやりと頬を撫でる。
――あれ。
いつもの時間なのに、
稽古の音が、しない。
胸がざわつく。
気づけば、中庭へ向かっていた。
廊下を曲がる。
そよ、と草花が揺れた。
視界が開ける。
鴉が一羽、低く旋回していた。
その下に、二つの影。
向かい合う距離。
ユーリスと――ケルヴィン。
鞘が、鳴った。
「ケルヴィン」
刃が、静かに抜き放たれる。
赤い瞳が、まっすぐ射抜く。
「俺と勝負しろ」
一歩踏み出す。
「俺が勝ったら――
ユイカから、手を引け」
ケルヴィンの眉が、かすかに動いた。
風が走る。
二人の髪が、揺れる。
上空で鴉が低く鳴いた。
その瞬間。
ケルヴィンの背で、金属が鳴る。
長い刀が抜き放たれた。
地を蹴る。
刃が、火花を散らした。
一合。
重い。
地面が鳴る。
二合。
踏み込みが深い。
三合。
甲高い音が、中庭に響き渡る。
互いに半歩、引く。
抉れた土。
間合いは、紙一重。
橙の瞳が細く笑う。
赤い瞳は、揺れない。
速い。
結花の喉が、凍りつく。
真剣な横顔。
飛び散る汗。
――雨宿りの腕。
甘味屋での、熱を帯びた瞳。
震えた、あの唇。
胸が、強く締めつけられる。
――嫌だ。
刃が交わる。
金属音が弾ける。
火花が、散る。
声が、出ない……。
――でも。
ユーリスさんが傷つくのは――嫌だ。
握りしめた指先が、震える。
ふたりが、同時に踏み込んだ。
「――ユーリスさん!」
その声に、ほんのわずかに、
ユーリスの肩が揺れた。
金属が、甲高く弾ける。
橙の刃がわずかに逸れた。
一瞬の隙。
赤の刃が、滑り込む。
ユーリスの刀が、ケルヴィンの喉元に突きつけられていた。
土煙が、遅れて落ちる。
ケルヴィンが、喉の奥で笑った。
「……俺の、負けだ」
静寂。
風だけが、遅れて抜けた。
刃が、ゆっくりと退く。
ユーリスが振り向いた。
赤い瞳とぶつかる。
「……ユイカが、好きだ」
一歩、踏み出す。
「この気持ちは、誰にも負けない。
俺を――選んでくれ」
風が、止まった気がした。
結花の瞳から、涙が溢れた。
「選ぶ……必要なんて、ないです。
だって……だって、私は……」
この世界に初めてきた、あの日。
『俺は武器を持たない女性に手はあげない。
……安心していい』
微笑んだ彼の、赤い瞳と目が合ったあの時から……
「ずっと――あなたが、好きだったから!」
――カラン。
刀が、地に落ちた。
ユーリスの目が、見開かれる。
「……俺で、いいのか?」
かすれた声。
結花は、涙のまま微笑んだ。
「……ユーリスさんが、いいです」
ユーリスは一瞬、泣きそうに顔を歪めた。
迷いなく、駆け寄る。
そっと――抱きしめる。
強くもなく、けれど離さない腕。
結花の、止まらない涙が頬を伝う。
額が胸元に触れた。
風が、静かに草を撫でる。
――その中で、
二人は、しばらく離れなかった。




