34話 誤解のまま、好きだと言った
夜。
広間には灯がともり、低い卓が据えられている。
柱にもたれ、腕を組む影がひとつ。
周囲には側近たちの影。
上座に、ヴァルガス。
その右にユーリス。
正面にケルヴィン。
少し離れた位置に、結花の席があった。
――プリン、渡せなかったな。
縁側の光景が、ふとよぎる。
目を上げると、ユーリスは一度もこちらを見ない。
杯を傾ける横顔は、いつもより硬い。
その様子を、ヴァルガスは愉快そうに眺めていた。
「久しいな」
豪快な声が広間に響く。
「橙を飛び出した狂犬が、まさか我が館に現れるとは」
ケルヴィンは肩をすくめた。
「昔の話、蒸し返す気かよ、将軍」
「蒸し返す、か。ははっ……」
ヴァルガスは喉の奥で笑う。
「牙を向けた夜のことは、忘れておらんぞ」
静まり返る。
ユーリスは何も言わない。
だが杯を置く音が、わずかに重い。
ケルヴィンも笑わない。
視線だけが、静かに交差する。
言葉はない。
それだけで十分だった。
「ユイカ」
低く、しかし威圧ではない声。
「今朝は肝を冷やしただろう」
結花は背筋を伸ばす。
「いえ……」
「おぬしが、この館で他国の男に抱えられる。放ってはおけん」
一拍。
「顔色を見ておきたかっただけよ」
目を細める。
「……元気そうで、安心した」
結花は小さくうなずく。
その間も、ユーリスは何も言わない。
杯が、静かに満たされる。
「飲め、ユーリス」
ヴァルガスは豪快に笑いながらも、視線を外さない。
「今夜は顔が固いぞ」
笑っているのに、声は低い。
「悩みがあるなら、まず腹に落とせ。酒はそのためにある」
ユーリスは何も言わず、杯を取った。
一息にあおる。
置く。
また注がれる。
断らない。
結花は思わず視線を向けた。
横顔は無表情。
赤い瞳は、どこも見ていない。
ただ、静かに酒を流し込んでいる。
……大丈夫なのかな。
これ、飲み過ぎじゃない?
昼から、まともに目も合っていない。
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
その様子を、ケルヴィンは横目で見る。
何も言わない。
杯の縁を指でなぞるだけ。
ヴァルガスは大きく笑った。
「どうしたユーリス。客人を前にして無口とは、らしくないな」
盃を掲げたまま、ユーリスを見据える。
ユーリスは一瞬だけ視線を上げる。
「……問題ありません」
短い声。
また飲む。
杯が、少し強く置かれた。
音が、広間に響く。
結花の指先が、膝の上で強く握られた。
空気が、わずかに重くなる。
やがて、ユーリスが立ち上がった。
「……少し、外します」
視線は合わせない。
そのまま広間を出ていく。
灯が揺れ、襖が静かに閉じた。
結花の胸が強く打つ。
……このままで、いいの?
「……あの」
視線が集まる。
「私も……少し、外していいですか」
指先が、震える。
ヴァルガスは、じっと結花を見た。
やがて口元を緩める。
「遠慮は無用じゃ」
結花は立ち上がり、頭を下げて襖を開けた。
夜気が、頬を撫でる。
廊下の先に、背中。
迷いなく歩く足取り。
角へ向かう、広い肩。
――間に合う。
「ユーリスさん!」
声が、廊下に響いた。
角の手前で、足が止まる。
振り返る。
赤い瞳が、こちらを捉える。
だがすぐに逸らされた。
「ユーリスさん……大丈夫ですか?」
「……なぜ、来た」
低く、冷たい声。
その響きに、結花の肩がわずかに震える。
「だって、あんなにお酒を飲んで……心配で」
「君は――
ケルヴィンのそばにいればいいだろう!」
結花は目を見開く。
こんなふうに、声を荒げる彼を――
初めて見た。
「……俺に構うな。宴席に戻ればいい」
「そんなことできません!」
声が震える。
「ユーリスさん、変ですよ?
放っておけるわけ、ないじゃないですか!」
手首を引かれる。
体が揺れる。
背が、角の板壁に当たった。
逃げ道を塞ぐ両腕。
そして――唇が重なった。
「……急に、すまない。
でも……」
赤い瞳が、わずかに歪む。
「ーー好きなんだ」
背を向ける。
「……キスしたことは、謝らない」
衣擦れが、遠ざかる。
力が、抜ける。
結花は、その場に崩れ落ちた。
夜風だけが、廊下を抜けていった。




