2話 名前を呼ばれた日
――私は、彼に一目惚れしてしまったらしい。
そんな現実を受け止めきれないまま、結花は青年と向き合っていた。
「君は……どうしてこんな場所に?
一人で来るには危険すぎる」
純粋な疑問として投げかけられ、結花は慌てて首を振る。
「そ、それが……私にも、よく分からなくて。
さっきまで学校にいたんです。でも、気づいたら……こんな……」
言葉の途中で、視界の端にそれが映り込む。
血の匂いが、消えない。
倒れ伏す人の形だったもの。
結花は身を震わせた。
夢であってほしい。
けれど、そう願うには、あまりにも現実的すぎる。
「……ガッコウ?」
青年が小さく首を傾げる。
「はい。学校です」
「聞かない言葉だな」
「……え?」
思わず声が漏れる。
日本で、学校を知らない人なんているはずがない。
そもそもおかしいのは、この場所だ。
青年はここを「戦場」と言った。
着ている服も、腰に下げた刀も、結花の知っている世界のものじゃない。
考えたくなかった答えが、じわじわと形を成していく。
「……行く当てがないなら、ここは危険だ」
青年はそう言って、わずかに目を細めた。
「将軍のところまで案内する。
少なくとも、ここよりは安全だ」
その視線に、結花の心臓が大きく跳ねる。
驚きと不安と、名前のつかない感情が一度に押し寄せ、
声が震えそうになるのを、必死で堪えた。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、
青年は「気にしなくていい」とでも言うように、軽く頷いた。
それから、三十分ほど歩いただろうか。
戦場からはかなり離れたようで、死体も血の匂いも、次第に薄れていった。
青年は結花の少し前を歩きながら、ときどき振り返り、足場を確かめるように視線を向ける。
「……名乗ってなかったな。俺はユーリスだ」
「ユーリス、さん?」
思わず聞き返してしまう。
日本人の名前じゃない。
戦場の雰囲気から、どこか古い時代を想像していたのに、それとも違う。
赤い瞳も、結花の知る日本人とはかけ離れていた。
「これから向かう将軍のところって……」
「ああ。紅の軍。
紅の國の総大将、ヴァルガスのもとだ」
紅の軍。
紅の國。
――やっぱり、聞いたことがない。
「……じゃあ、ユーリスさんは、その……将軍の一人なんですか?」
ユーリスは、あっさりと頷いた。
「そういうことになる」
「そ、その……私の名前は……」
異国の名前を名乗る彼の前で、
自分の名前を言うのが急に場違いに思えた。
それでも今さら引っ込めることもできず、結花は小さく息を吸う。
「武藤結花といいます」
「……ムトウ、ユイカ?」
どちらが家名で、どちらが名なのか。
判断がつかず、ユーリスは考え込む。
「……ユイカ、でいいのか?
氏を持つとは、姫なのか?」
「ひ、姫なんて、そんな……!
ただの一般人です!」
慌てて否定しながら、別のことに気づいてしまう。
――名前で呼ばれてる。
心臓が、またうるさく跳ねた。
首を傾げるユーリスを見て、結花はようやく理解する。
ここは、自分のいた世界とは根本的に違う。
この世界では、名字を持つこと自体が特別なのだ。
――しまった。
フルネームで名乗るべきじゃなかったかもしれない。
言い訳を考えかけた、そのとき。
「……もうすぐ本陣だ」
ユーリスは前を向き、わずかに口元を緩めた。
細かいことは、あまり気にしない性格らしい。
そのことに、結花はほっと胸を撫で下ろす。
こうして二人は、紅の國の本陣へと辿り着いた。




