27話 触れた指先だけが、残りました
その日の夕方。
結花は館の台所に立っていた。
ちょうど寒天が手に入った。
鍋に牛乳と砂糖を入れ、静かに火にかける。
甘い香りが、ゆるやかに広がった。
沸いたところで火を止め、小ぶりの器に流し込む。
「氷室から少し分けてもらえますか?」
頼むと、台所番が笑って氷を分けてくれた。
木製の冷やし箱に器を並べ、上段に氷を置く。
蓋を閉めると、ひんやりとした空気が満ちる。
しばらくして蓋を開けると、
白い表面が、つやりと固まっていた。
「ユイカさん。それ、なんですか?」
覗き込んできたのはマリナだ。
「ミルク寒天です。ひとつ、いりますか?」
差し出すと、マリナはぱっと顔を輝かせた。
「いただきます!」
小さな匙を添えて盆に乗せる。
もうひとつ、自分の分も。
約束はしていない。
けれどこの時間になると、
自然と中庭へ向かう足が動く。
いつの間にか――
ユーリスと甘味を分け合うのが、
日課になっていた。
いつもと違う。
足取りが、ほんの少しだけ重い。
今朝、あんなことがあったばかりだ。
……でも。
ーー会いたい。
中庭へ足を踏み入れると、
すでに縁側に人影があった。
ユーリスだ。
ひとり、静かに腰を下ろし、
庭の緑を見つめている。
心臓が、どくんと跳ねた。
「……ユーリスさん」
声をかけると、
彼はゆっくりと振り向く。
一瞬だけ目が合って、
結花の鼓動が早まる。
「一緒に……食べませんか?」
差し出した盆を見て、
ユーリスは小さく頷いた。
二人、隣り合って縁側に座る。
距離は、いつもと同じ。
けれど今日は、妙に近く感じる。
結花はそっと器を差し出した。
「……これは?」
「ミルク寒天です。牛乳を冷やして固めてみました」
ユーリスは白いそれを見つめたまま、黙り込む。
小匙を握ったまま、動かない。
胸が、きゅっと縮む。
「……あの、もしかして牛乳、苦手でした?」
不安になって覗き込むと、
ユーリスははっと我に返った。
「いや。そんなことはない」
そう言って、ひと匙すくう。
ゆっくりと口に運ぶ。
一瞬の沈黙。
「……うまい」
ぽつり、とこぼれた一言。
胸の奥が、じわりと温かくなる。
「よかった」
結花も、自分の器に匙を入れる。
甘くて、少し冷たい。
その味が、今日はいつもよりも強く感じられた。
鳥の声が、遠くで鳴く。
草花を渡る風が、さらりと揺れる。
ふたりは、言葉を交わさない。
いつもなら、何かしら話しているのに。
今日は――うまく声が出なかった。
……もう。深兄のせいだ。
結花は食べ終えた器を、そっと盆に戻す。
小さな音が、やけに大きく響いた。
横目で見ると、ユーリスの器も空になっている。
「ユーリスさん、器……」
差し出されたそれを受け取ろうとした瞬間、
指先が、触れた。
ほんの一瞬。
それだけで、心臓が跳ねる。
ユーリスの指も、わずかに震えたのが分かった。
気づかないふりをして、ふたりはまた前を向く。
沈黙。
けれど、居心地は悪くない。
言葉がなくても、
隣にいることだけは、確かだった。
夕陽がゆっくりと傾き、
縁側に長い影を落とす。
赤く染まった光の中で――
ふたりは、そのまま動かなかった。
触れた指先の感触だけが、やけに長く残った。




