26話 想い人は誰なんだと問われました
ユーリスは混乱していた。
朝議が始まっても、内容が頭に入らない。
――お前も、惚れた相手がいるから残ることにしたんだろ?
深夜の言葉。
そして、真っ赤になった結花の顔。
胸の奥が、鈍く疼く。
……本当なのか。
なら、相手は――
「ユーリス」
遠くから呼ばれた気がした。
「……ユーリス。聞こえてる?」
はっとして顔を上げる。
目の前に、サイガ。
広間には、もうほとんど人がいない。
「あ……朝議は」
「とっくに終わってるよ」
肩をすくめる。
「どうしたの。心ここに在らず、って顔してる。珍しいじゃん」
焦げ茶の瞳が、探るように覗き込む。
ユーリスは視線を逸らした。
喉が、ひどく乾いている。
押し出すように、口を開いた。
「……お前は、知っているのか。
ユイカの……想い人」
サイガは、一瞬だけ目を見開いた。
そして、わずかに視線を落とす。
「……まぁ、ね」
その含みのある返答に、空気が止まる。
「……っ。まさか、お前が――」
「そんなわけないでしょ」
即答。
「ユイカの態度、見てれば分かるじゃん」
その一言で、ユーリスは黙り込む。
「……さすがに」
サイガは視線を外す。
「俺の口からは言えないよ」
それだけ告げて、背を向けた。
軽い足取り。
だが、振り返らない。
廊下に残されたのは、重い沈黙。
ユーリスの眉間に、深い皺が刻まれる。
――じゃあ、一体誰だ。
脳裏をよぎる影。
……まさか。
ヴァルガス?
心臓が、どくりと跳ねた。
……勝ち目が、ない。
いや、考えすぎだ。
だが――否定できない。
混乱したまま歩き出す。
気づけば中庭へ向かっていた。
風が、木々を揺らす。
そこに人影があった。
――ユイカ。
白い吐息が、わずかに揺れる。
彼女は、桜を構えていた。
ゆるやかな型。
踏み込みは静かで、刃は滑るように空を裂く。
速くはない。
だが、一切の無駄がない。
朝議で見せた、あの戸惑いも。
昨夜、腕の中で震えていた姿も。
今は、どこにもない。
ただ、凛と立つ剣士がいる。
……知らなかった。
こんな顔を、するのか。
刃が返る。
袖が舞う。
まるで、風と溶け合うような動き。
胸の奥が、ざわつく。
――誰のために。
あの覚悟を、決めた。
あの声が蘇る。
“惚れた相手がいるから――”
手が、無意識に握られる。
最後の一太刀。
す、と刃が止まる。
静寂。
ゆっくりと息を吐いた彼女が、ふと顔を上げた。
視線が、合う。
一瞬だけ、驚いたように目を見開く。
それから、ほんの少しだけ――
困ったように、笑った。
「……見てたんですか?」
風が、二人の間を通り抜ける。
ユーリスは、答えられないまま立ち尽くしていた。
二人は縁側に腰を下ろした。
朝の光が草花をやわらかく照らしている。
しばらく、静かな時間が流れる。
「……綺麗だった」
ぽつりと、ユーリスが漏らした。
「ユイカは、あんな風に舞うんだな」
その言葉に、彼女の頬がふわりと染まる。
黒い瞳が、嬉しそうに細められた。
「そんなに褒めても、何も出ませんよ。
でも……嬉しいです」
どくん、と心臓が跳ねる。
彼女は視線を外し、中庭へと目を向けた。
横顔が、やわらかな光に縁取られる。
……目が、離せない。
昨日までは、こんなことなかったのに。
胸の奥が、妙に熱い。
揺れる黒髪。
その中に、朱色がひとつ。
「それ……」
思わず、視線が留まる。
結花は気づいて、簪にそっと触れた。
「今まで大事にしまっていたんですけど……。
こっちに残るって決めたから、つけてもいいかなって」
そして、こちらを見る。
「……変じゃないですか?」
不安と期待が混ざった目。
一瞬、言葉が出ない。
「……似合ってる」
ぽつりと落ちた声。
結花は瞬きをして、それから――
蕩けるように、笑った。
胸の鼓動が、さらに速くなる。
二人の間に、沈黙が落ちた。
けれど、不思議と気まずくはない。
こちらに残ると決めた――
その理由が、胸の奥に引っかかる。
誰のために。
「……ユイカの……」
気づけば、口が動いていた。
「想い人は……誰なんだ?」
黒い瞳が、大きく見開かれる。
次の瞬間、視線が泳ぐ。
耳まで、ゆっくりと赤く染まっていく。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……そんなに、好きなのか」
無意識に、声が低くなる。
結花ははっと息を呑み、すくりと立ち上がった。
「ユ、ユーリスさんは気にしないでください。
ほ、本当に……兄が余計なことを」
ぺこり、と頭を下げる。
そのまま、逃げるように駆けていく。
ぽちゃん、と水面が揺れた。
その波紋のように、胸の奥も静まらない。
ユーリスはただ、やわらかな陽の光の中に消えた背中を見つめていた。




