21話 その日、彼は彼女を見た
「――持ち直している、か」
報告を受け、ヴァルガスは低く息を吐いた。
その横で、サイガが軽く肩を回す。
「少し前までは押されてたみたいですけど、今は持ってます。外門も無事です」
「ほう」
癖のある赤髪をかき上げ、ヴァルガスは顎に手をやった。
「ユーリスは間に合いそうか」
「全力で戻ってますよ、あいつ。止めないと馬が潰れますよ」
小さく笑う。
だが、すぐに真顔に戻った。
「……防衛軍は七百。敵は二千。ここまでもたせたのは上出来だ」
ヴァルガスの瞳に宿るのは安堵ではなく、計算。
「見くびっていたのは儂の方か」
そして振り向く。
「――進軍だ。ガレスらを孤立させるな。合流後、即座に叩く」
地鳴りのような雄叫びが上がる。
兵が動き出す。
その喧騒の中、サイガだけが動かなかった。
眉間にわずかな皺。
なんか妙なんだよね……。
同郷の諜報員からの最後の一文。
――奇妙な装いの少女が、防衛線に立っている。
少女。
戦場に?
鎧姿ではない。
兵でもない。
「……いや」
小さく息を吐く。
まさか、ね。
だが胸の奥がざわつく。
西の空はすでに赤い。
血の色のように。
その頃――
紅の國の外門では、激戦が続いていた。
金属がぶつかる音。
怒号。
悲鳴。
その只中に、ひときわ異質な影があった。
鎧ではない、少女。
振るわれた刃が、円を描く。
鉄が裂ける。
兵が崩れる。
だが――血は流れない。
切られているのは鎧だけ。
肉体は打たれ、意識を刈り取られるのみ。
誰一人、死んでいない。
舞うような足運び。
翻る制服の裾。
その姿に、紅の兵が息を呑む。
「……押せ!」
声が上がる。
流れが変わった。
その奥で。
バリエスが唇を噛む。
「馬鹿な……」
ヴァルガスが境河原へ兵を割く。
紅の國は手薄になる。
その情報は確かだった。
あの少年は、事実だけを残していった。
あとは、任せるとでも言うように。
計算は狂っていないはずだった。
――国境も、抜いたはずだ。
先に潜り込ませた兵もいる。
……なのに。
「なんだ、あれは……」
少女が、また一人薙ぎ払う。
血は出ない。
だが、確実に戦線が削られていく。
バリエスの額に、汗が伝った。
「あの少女は……何者だ」
戦場は、まだ落ちていない。
ユーリスは駆けていた。
息は荒い。
だが、止まらない。
間に合わなければ意味がない。
視界の先に、煙が上がる。
怒号。
金属の音。
胸の奥が強く鳴る。
「……間に合え」
さらに速度を上げる。
土煙の向こう。
最前に立つ、小さな影が見えた。
一閃。
鎧が弾ける。
無駄のない足運び。
遠目でも分かる。
強い。
鎧でも陣羽織でもない。
あの日戦場で見た、あの妙な装い。
その姿がはっきりと視界に入った瞬間。
思考が止まった。
……ユイカ?
心臓が跳ねる。
「ユイカ!!」
声が、勝手に飛び出していた。
何も考えられなかった。
こんな大勢の前で、桜を振るう日が来るなんて。
妖刀――桜。
武藤家に伝わる刀。
三つの頃、初めて触れた。
それからずっと一緒だった。
振るうのは、いつも深兄の前でだけ。
それが今は――
目の前に、次から次へと兵が迫る。
斬る。
弾く。
薙ぐ。
鉄が裂ける音が続く。
思考は消えていた。
ただ守る。
それだけ。
どれほど続いたのか分からない。
そのとき。
胸の奥を射抜く声が、届いた。
懐かしい。
誰よりも、聞きたかった声。
振り向く。
「……ユーリスさん!」
その瞬間。
ユーリスの胸が、強く打った。
――あの日と同じ。
黒い瞳が揺れる。
思考が止まる。
だがその背後――刃が振り下ろされる。
視界が凍りついた。
「ユイカ、後ろ!!」
叫びは、ほとんど悲鳴だった。
結花は振り向かない。
兵の動きが、わずかに止まる。
刹那。
刀が一閃。
鎧が裂け、男が崩れる。
……息が戻る。
無事だ。
それだけで、十分だった。
「……っ、はは」
込み上げる何かを振り払う。
今は戦だ。
刀を握る。
「将軍不在を狙うとは――いい度胸だ」
わずかに目を細める。
「その覚悟、俺が受ける」
刃が走る。
敵兵が、崩れ落ちた。
紅の兵が湧いた。
「ユーリス様だ!」
「行けぇ!」
戦線が押し返される。
やがて敵の動きが鈍る。
日が沈む少し前。
地鳴りとともに、ヴァルガスが戻る。
その姿を見た瞬間、勝敗は決した。
紅の國はーー守られた。




