20話 その日、彼女は立った
ユーリスは馬を全速で走らせていた。
境河原から館までは遠い。
進めど、進めど、景色は変わらない。
――早く。
それだけが、胸を占める。
将軍として命を受けた以上、私情を挟むつもりはなかった。
命令は絶対だ。冷静に遂行する。それが自分の役目だ。
だが今回は違う。
館に残してきた少女の顔が、何度も脳裏をよぎる。
父を失い、ヴァルガスに拾われて以来、
戦うことに迷いはなかった。
命を捧げる覚悟も、とうに決めている。
それなのに――
結花を失うかもしれない、という考えだけは、
胸の奥を強く締めつけた。
外門が破られれば、館も無事では済まない。
いつからだろう。
あの少女が、こんなにも大きな存在になっていたのは。
「……無事でいてくれ」
風に紛れるほどの、小さな呟き。
ユーリスは馬腹を蹴る。
応えるように、愛馬が速度を上げた。
土煙が長く尾を引く。
外門へ。
ただ、それだけを目指して。
***
時は、半刻ほど遡る。
ヴァルガスのもとへ急報が届いた頃――
館の外門では、激しい攻防が続いていた。
「……バリエスか」
かつて謀反を起こし、国外へ追放された名門の当主。
どうやら、諦めてはいなかったらしい。
防衛隊を率いるガレスが、低く吐き捨てた。
バリエス軍は二千。
紅の國は、七百。
三倍近い兵力差。
それでも防衛隊は踏みとどまっていた。
長い時間。
門前で、必死に食らいついてきた。
だが――
じりじりと、押される。
バリエスはかつて、紅の國で名を馳せた将のひとりだった。
兵を動かす術も心得ている。
怒号が響き、敵兵が波のように押し寄せる。
総大将不在。
士気は削られ、陣形は歪み始めていた。
……ここまでか。
ガレスが覚悟を決めた、その時。
外門の上から、眩い光が放たれた。
「な、何だ!?」
「何が起こった!?」
両軍が目を細めた、その瞬間。
――ザンッ。
門へ投げ込まれていた爆薬の導火線が、空中で断ち切られた。
火花が弾け、煙が流れる。
次の刹那――
とん、と軽やかな着地音。
門上から、一人の少女が降り立った。
白い長袖。
厚手の上着。
膝上までの紺の衣服に、黒い脚衣。
この戦場にはあまりにも不釣り合いな装い。
小柄な体に似合わぬ、鈍く光る刀が握られている。
少女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳を見た者たちは、息を呑む。
武の心得がある者ほど、理解した。
そこにあるのは年相応の幼さではない。
ただ静かで、冷たい覚悟。
周囲の空気を圧するほどの気迫。
「――ここから先は、通しません」
凛と響く声。
「ユーリスさんが……将軍が戻ってくるまで。私が守ります」
紅の國の兵の何人かが、はっと目を見開く。
あの少女だ。
以前、ユーリスの馬の後ろに乗っていた――あの客人。
だが、雰囲気が違う。
まるで別人。
敵陣から嘲りの声が上がる。
「小娘一人に何ができる」
剣を構えた兵が一歩踏み出す。
「すぐに黄泉へ送ってやるわ!!」
敵兵が大きく剣を振り下ろす。
紅の國の兵たちは息を呑んだ。
――斬られる。
そう思った瞬間。
少女の姿が、消えた。
「何……!?」
剣は虚しく空を薙ぐ。
次の刹那。
「ぐあっ!」
鈍い音とともに、男の身体が崩れ落ちた。
鎧が、真っ二つに裂けている。
だが――血は、出ていない。
バリエス軍の鎧は決して脆くない。
厚い胸当てと幾重もの布で固められた防具だ。
一撃で断つなど、常人には不可能。
それを、少女はやってのけた。
しかも、斬ったのは鎧だけ。
男は気絶している。
戦場に、静寂が落ちた。
「殺しはしません」
少女は静かに告げる。
「ですが――ここから先へは、通しません」
その黒い瞳には、ただ揺るがぬ意志だけが宿っていた。
紅の國の兵が、息を吐く。
――勝てる。
誰かが呟く。
この少女がいる。
それだけで、空気が変わった。
士気が、跳ね上がる。
「押せぇぇ!」
紅の軍が一斉に前へ出る。
バリエス軍は応戦するが、流れはすでに変わっていた。
形勢は、逆転する。




