18話 待つ者の戦い
紅の軍が国を発って三日。
境河原では、銀の國との戦が続いていた。
勝敗はまだ決していない。
三日目の夜――両軍は距離を取り、静かに陣を敷いている。
この地での戦は幾度も経験してきた。
兵たちは火を囲み、
武勲を語り、明日への闘志を燃やしていた。
その輪から少し離れ、ユーリスは月を見上げていた。
「珍しいね。ひとり?」
気配もなく現れた影。
聞き慣れた声に、ユーリスは振り向かない。
「サイガか」
少しの間。
そして、ぽつりと。
「……ユイカは、どうしていると思う」
サイガの眉がわずかに動いた。
「 へぇ。ユーリスが他人の事気にするなんてね。
元気にやってるんじゃない?」
――体調には気をつけてください。御武運を。
見送り際の声を思い出し、サイガは小さく笑う。
「……ああいう顔で見送られたらさ。
無様な帰り方はできないよね」
茶化すような口調。
だが、ユーリスは真顔のまま頷いた。
「ああ。約束したからな」
月光が、ユーリスの横顔を淡く照らす。
サイガは空を仰ぎ、肩をすくめた。
「ユーリスも、ほんと変わったよね」
ふたりは並んで、静かな夜を見上げた。
遠く離れた館にいる少女を、思い浮かべながら。
***
「もう四日か……」
館の縁側で、結花は小さく呟いた。
出陣から四日。
屋敷の中は、驚くほど静かだった。
朝の稽古も、侍女の手伝いも、いつも通りこなしている。
けれど、胸の奥にぽっかりと空白がある。
ユーリスやサイガと顔を合わせていた時間が、そのまま抜け落ちたようだった。
――情けない。
きっと皆、必死で戦っているのに。
待つことしかできない自分が、もどかしい。
戦が一日や二日で終わるはずがないと分かっている。
それでも、ただ待つだけというのは、思っていた以上に苦しかった。
皆、無事だろうか。
怪我などしていないだろうか。
考え始めると、胸が締めつけられる。
そのとき、廊下を歩く足音がした。
視線を向けると、雑巾と桶を持ったマリナの姿が見えた。
まだ早朝だ。
仕事が始まるには少し早い。
「マリナさん?」
「ユイカさん。こんなところでどうしたんですか?」
「それはこっちの台詞です。そんなものを持って……」
結花が雑巾に視線を向けると、マリナは困ったように笑った。
「何かしていないと、落ち着かなくて」
桶の水面が小さく揺れた。
待つ側の気持ちは、きっと皆同じなのだ。
戦に出る男たちを見送る者は、いつも残される。
不安も、焦りも、祈るしかない夜も――何度も経験してきたのだろう。
体を動かしていれば、余計なことを考えずにすむ。
結花は小さく息を吐いた。
「……私も一緒にやっていいですか?」
マリナは驚いたように目を丸くし、それから柔らかく頷いた。
「もちろんです」
彼女は二十歳前後の、少し華奢な女性だった。
年が近いこともあり、結花にとっては侍女の中で一番話しやすい相手だ。
廊下を並んで雑巾がけしながら、ふたりは他愛ない話をしていた。
「へえ。マリナさん、恋人がいるんですか?」
「ちょ、ちょっと、ユイカさん! 声が大きいですって!」
「あっ、ごめんなさい……」
どうやら、出陣した軍の中に想い人がいるらしい。
つい最近、ようやく両想いになったのだとか。
頬を赤く染めながら、マリナは小さな声で続ける。
「ちょっと不器用で、気難しい人なんですけど……本当は、とても優しいんです」
その横顔は、隠しきれない幸福で満ちていた。
「いいなあ……少し、羨ましいです」
「え? でもユイカさんにはユーリス様がいらっしゃるじゃないですか」
結花の手がぴたりと止まった。
雑巾を握ったまま、顔が一気に熱くなる。
「な、な、な、なんでそこでユーリスさんが出てくるんですか!?」
真っ赤になって叫ぶと、マリナは本気で驚いた顔をした。
「え、だって……あのユーリス様が、ご自分の馬に女性を乗せて戻ってきたって、屋敷中が大騒ぎでしたよ? しかも、いつも二人で甘味を召し上がっているとか……」
「甘味は……その、ただ一緒に食べてるだけです!」
「将軍のお客様ってことになってますけど、実は花嫁修業らしいって……」
「なんでそんな設定になってるんですか!?」
そういえば、どことなく遠慮されていた気もする。
すんなり受け入れてくれたのも、まさかそのせいなのか。
「全部、誤解ですから! ユーリスさんは恩人で……よ、嫁とか、そんなの私にはもったいなさすぎますし、ありえません!」
必死に否定すると、マリナはそれ以上追及しなかった。
その優しさに少し救われながら、結花はふと思っていた疑問を口にする。
「でも……ユーリスさんって、普通に格好いいですよね。好きになる人、いないんでしょうか?」
引き締まった横顔。
陽に透ける茶色の髪。
戦場にいてなお、どこか整いすぎている。
結花の元いた世界でも、きっと目を引いたはずだ。
自分は外見で人を好きになるタイプではない――そう思っている。
けれど、好きになってしまったものは仕方がない。
それでも、あの容姿でまったく女性の影がないのは、少し不思議ではあった。
「最初は、憧れる娘も多いんですよ。でも……」
マリナは考え込むように指先を唇に当てる。
「真面目すぎるというか……いつも将軍としてのことしか考えていないというか。それに」
声を落とす。
「女性が近づくと、さりげなく距離を取られるそうなんです」
「距離を……?」
「ええ。気づいたら、すっと一歩下がられているとか。あまり女性慣れしていないのかもしれませんね」
くすりと笑う。
「だから皆さん、途中で諦めてしまうみたいで」
なるほど、と結花は頷きかけて――少しだけ首を傾げた。
でも、私にはそんなふうに見えなかったけれど。
その時。
屋敷の奥から、慌ただしい足音が響いた。
「大変だ! 外門が襲撃された!」
切迫した叫び声が上がった。
空気が、一瞬で凍りつく。
紅の國の主力は今、ここにはいない。
最悪の報せだった。




