17話 待つと決めた日
どれくらい、そうしていたのだろう。
気づけば日は傾き、庭は夕色に染まっていた。
「はあっ……!」
鋭く息を吐く声。
刀が大きく弧を描き、ぴたりと止まる。
ユーリスはその場に膝をついた。
肩で息をしている。額から汗が伝い落ちた。
結花は、そっと立ち上がる。
「……ユーリスさん」
声をかけると、彼はようやくこちらに気づいた。
「ユイカ? どうしてここに」
「少し、あの木のところで休んでいたんです。……お疲れさまです」
一瞬、目を見開く。
「見てたのか?」
「はい……すみません。あまりにも真剣で、声をかけづらくて」
彼は小さく息を整えながら答えた。
「戦が近い。今のうちにできることは、やっておく」
「あさって、出陣されるんですよね」
「ああ」
迷いのない返事だった。
その落ち着きが、かえって胸を締めつける。
「……怖くは、ないんですか?」
問いかける声は、思ったより小さかった。
ユーリスは少しだけ目を細める。
「怖くないと言ったら嘘になる」
夕陽を受けた横顔が、どこか遠い。
「戦えば、人は死ぬ。俺も、何人も斬ってきた」
静かな声だった。
「だが、終わらせなければならない。……誰かが」
赤い瞳が、まっすぐ結花へ向く。
「ヴァルガスは……この国を任せられる人だ。
俺は、その背中を信じてる」
「だから行く。それだけだ」
そのときのユーリスの表情は、
これまで見たどの顔よりも大人びて見えた。
迷いのない瞳。
静かな決意。
――将軍の顔だった。
そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられる。
心配だと、怖いと、縋ることもできる。
けれど、結花にできるのは――笑って送り出すことだけだ。
「約束していただけませんか。必ず……生きて帰ってくるって」
ユーリスは一瞬だけ言葉を失い、
それから、まっすぐ頷いた。
「ヴァルガスが立ち続ける限り、俺は倒れない。
必ず帰る。
……待っていてくれ」
その言葉に、ようやく息ができた気がした。
「……はい」
結花は笑う。
すると、ユーリスの表情が、わずかに緩む。
信じて待とう。
みんなが、帰ってくるその日まで。
翌日は、慌ただしく過ぎていった。
結花は侍女たちと共に、洗濯や携帯食の準備に追われる。
屋敷中が戦支度に染まり、誰もが忙しく動いていた。
ユーリスとも会わなかった。
いつも不意に現れるサイガの姿さえ見ないまま、
気づけば出立の日を迎えていた。
早朝。
屋敷の前には紅の國の旗が翻り、兵たちが整然と並んでいる。
冷えた空気の中、甲冑のきしむ音が響く。
間もなく、ヴァルガスが出陣の声をかけるはずだ。
その前に、どうしても伝えておきたかった。
「将軍。おはようございます」
「ユイカか。……顔色が戻ったな」
思わず目を見開く。
気づいていたのだ。
「最初は不安でした。でも今は、皆さんが無事に戻ってくるって信じています」
そう言うと、ヴァルガスは豪快に笑った。
「当然だ。負ける気など毛頭ない」
力強い声が朝空に響く。
「ここは任せたぞ」
「はい。お任せください」
少しだけ背伸びをして胸を張る。
ヴァルガスは満足そうに頷いた。
「おいおい、将軍とばっか話してるじゃん。
こっちも混ぜてよ」
背後から聞き慣れた声。
「サイガ!?」
振り向くと、いつの間にかそこに立っている。
相変わらず、気配がない。
結花は思わず胸を押さえた。
「いきなり後ろに現れないでくださいよ! びっくりするじゃないですか!」
「ん? わざとだし」
「わざと……?」
あっさり言い切られ、言葉を失う。
これから戦だというのに、この人は本当に変わらない。
思わず、吹き出してしまった。
「……あまり、無茶しないでくださいね」
笑ってそう言うと、サイガは一瞬だけ目を細める。
「それ、俺よりユーリスに言う台詞じゃない?」
「……そうかもしれません」
そのとき――
「将軍。おはようございます」
低く、はっきりとした声が響いた。
結花は思わずそちらを見る。
「来たか。準備は整っておるな」
「はい」
それだけで、十分だった。
結花はユーリスへ歩み寄った。
「ユーリスさん、おはようございます」
「ユイカ。おはよう」
いつもと変わらない声音。
それが、少しだけ胸に痛い。
「体調には気をつけてください。……皆さん、御武運を」
ヴァルガスは静かに頷いた。
ユーリスも、短く。
朝日を受け、紅の旗がはためく。
ヴァルガスを中心に軍勢が動き出す。
騎馬隊の蹄の音が遠ざかっていく。
その背中が小さくなるまで、結花は立ち尽くしていた。
やがて、屋敷の侍女頭が声を張る。
「さあ、戻りますよ。帰られたときに困らぬよう、整えておきなさい」
侍女たちが一斉に動き出す。
そうだ。
帰ってくる場所を、守るのも戦だ。
結花は振り返り、屋敷へと歩き出した。




