15話 恋を言葉にした日
約束を交わしたわけではない。
けれど、結花とユーリスが毎日同じ時間に甘味を囲むことは、いつの間にか当たり前になっていた。
だが今朝、ユーリスは珍しく視線を逸らしながら言った。
「今日は、その……一緒に食べられない」
理由は“武の鍛錬”だという。
丸一日かかる、特別な修練らしい。
紅の國の鍛錬場は、いつも少し遠い。
朝の掛け声は聞こえるのに、その輪の中に自分が立つことはない。
……仕方ないよね。
ぽっかり空いた時間をどう使おうかと考えたとき、ふと思い出したのは、以前ユーリスに案内してもらった甘味処だった。
「日が落ちるまでには戻れるかな」
独り呟く。
幸い、ヴァルガスから支給されている生活費がある。
手土産を買うくらいの余裕は十分あった。
思い立つと、結花は手早く身支度を整える。
館の門を抜けると、午後の風が柔らかく頬を撫でた。
今日は、ひとりの外出だ。
それだけなのに、少しだけ胸が弾んだ。
商いの声が響く通りを抜け、目的の甘味屋に足を踏み入れる。
「はい、いらっしゃい! あら、あんたこの間の子だね。今日はひとりかい?」
甘味屋のマーサは、結花の顔を見るなりぱっと笑った。
「こんにちは。今日はお土産を包んでもらいたくて」
「いいねえ。いくつにする?」
「この間いただいた三種類を、四本ずつお願いします」
「はいよ。少し待ってておくれ」
人好きのする笑みを残し、マーサは店の奥へ引っ込んだ。
昼下がりの店内は思いのほか混んでいる。
包み終わるまでには、少しかかりそうだった。
立ったまま待つのも落ち着かず、結花は店先の長椅子に腰かける。
特にすることもなく、通りを行き交う人をぼんやり眺めていた、そのときだった。
「なあ、あんた。隣、いいか?」
不意にかけられた声に、結花は顔を上げる。
「あ、はい。どう――」
振り向いた瞬間、言葉が止まった。
男の肩に、鴉が止まっていた。
赤茶の髪を短く整えた、ごく普通の旅装の男だ。
背には長い刀が一本。
人懐こそうに橙の瞳を細めている。
けれど――
その肩に当然のように留まる黒い鴉だけが、この場に似つかわしくなかった。
思わず、視線が吸い寄せられる。
「そんなに見るなよ。照れるだろ」
「す、すみません。肩に鴉がいて、珍しくて……」
「珍しい? こいつか?」
男は肩の鴉を軽く指で撫でる。
「まあ確かに、普通は連れて歩かねぇか」
そして、にやりと笑った。
「それとも何だ? まさかあんた、俺に惚れた?」
「は!?」
反射的に声を上げる。
「ち、違います! 全然違います!」
一瞬の間のあと、男は吹き出す。
「即答か。容赦ねぇな」
口ではそう言いながら、目は笑っている。
つい、結花も笑ってしまった。
「俺はケルヴィン。流れ者みたいなもんだ。あんたは?」
「む……結花です。縁があって、今は紅の國に」
危うく名字まで口にしかけ、慌てて飲み込む。
「敬語はいらない。堅いのは苦手なんだ。俺のことはケルヴィンでいい」
軽く手を振られる。
「ユイカは、この辺の生まれじゃないのか?」
「……うん。ちょっと事情があって、今はある人の館でお世話になってるの。ケルヴィンさん――」
「ケルヴィン。“さん”はいらない」
「でも……」
「ケ・ル・ヴィ・ン」
妙に丁寧に区切られて、思わず吹き出しそうになる。
「……ケルヴィン」
観念して呼ぶと、彼は満足そうに笑った。
なんだか、憎めない人だ。
「ケルヴィンは、どうして紅の國に?」
「さあな。風向き次第ってやつだ」
肩の鴉を指先で軽く撫でる。
「なあ、クロ?」
「カァ」
「わっ」
突然の鳴き声に、結花は肩を跳ねさせた。
ケルヴィンはくつくつと笑う。
「クロって言うの?」
「ああ」
ケルヴィンは肩の鴉を、迷いなく結花のほうへ差し出した。
「人には慣れてる。怖くねぇよ」
恐る恐る腕を差し出すと、クロは器用に飛び移る。
黒い足が袖にかかり、そのまま肩まで歩いてきた。
「……わ」
思わず息をのむ。
「気に入られたみたいだな」
「そ、そうかな……」
クロは結花の肩で落ち着き、羽を整え始める。
その仕草が妙に真面目で、思わず頬が緩んだ。
その様子を見ていたケルヴィンが、ふいに言う。
「なあ、ユイカ。今、恋してるか?」
「へ!?」
唐突すぎて、声が裏返る。
その瞬間――
クロが短く鳴き、ぱっとケルヴィンの肩へ戻った。
結花の顔がみるみる赤くなる。
「へえ。いるんだ」
「い、いるなんて、言ってない」
顔を赤くして視線を逸らすと、ケルヴィンは目を細めた。
「隠すことないだろ。恋は悪いもんじゃない」
肩をすくめる。
「好きなんだろ?……なら、大事にしとけよ」
さらりと言われて、結花は返す言葉を失う。
なんとなく気まずさを紛らわせるように、問い返した。
「……そういうケルヴィンは? 好きな人、いるの?」
「今はいない。
……昔はいたけどな」
その一瞬だけ、彼の目がわずかに遠くを見た。
踏み込んではいけない気がして、結花はそれ以上聞かなかった。
「まあ俺は、ユイカの話のほうが気になるけどな」
「わ、私の……好きな人のこと?」
「ああ」
からかうようでいて、視線は真っ直ぐだ。
どうやら冷やかしているわけではないらしい。
「聞いても、つまらないかもよ」
「そんなわけないだろ。で、どんな奴なんだ?」
瞳に僅かな期待の色が混じる。結花はとうとう観念した。
「……まっすぐな人、なの」
最初に視線がぶつかったとき、思った。
あの人の赤い瞳は、迷いがなくて、澄んでいた。
今ならわかる。
私はきっと……あの瞳に惹かれたのだ。
「自分の信じた道を、迷わず歩ける人……そんな気がする。
私にはできないことだから……だから、惹かれたんだと思う」
結花は視線を落とす。
自分にはまだ、胸を張って言える信念がない。
館で世話になっていながら、打ち明けられない秘密もある。
ユーリスは違う。
不器用なほど、真っ直ぐで――
……優しい。
「きっと、私のことは友人としか思ってないだろうけど……。
それでも、今は――
一緒にいられるだけで、十分」
いつか帰る日が来る。
そのときまで、ただ普通の女の子として、隣にいられればいい。
ケルヴィンは黙って聞いていた。
やがて、そっと手を伸ばす。
ぽん、と軽く頭を撫でられる。
「そっか」
それだけ言って、微笑む。
「ユイカが笑ってるなら……それでいい」
それ以上は、何も聞かなかった。
なんだか少しだけ胸が軽くなる。
やがて奥からマーサが顔を出す。
「はい、お待たせ。団子、包んどいたよ」
「ありがとうございます」
「俺のも頼むな」
「はいはい。あんたの分もできてるよ」
マーサは包みをそれぞれに手渡す。
結花の包みは三種類を四本ずつ。十二本の団子は、思ったよりずっしりしていた。
「ずいぶん買ったな。誰か待ってるのか?」
「うん。……まあ、そんな感じ」
「送ろうか?」
軽い調子だった。
結花は小さく首を振る。
「大丈夫。これくらい平気だよ」
「そっか」
あっさり引く。
「じゃあな、ユイカ」
「うん。またね、ケルヴィン」
“さよなら”とは言わなかった。
また会えるかどうかは分からない。
けれど、そう言い切ってしまうのは違う気がした。
結花は包みを抱え、甘味処を後にする。
店先の暖簾が、ふわりと揺れた。




