11話 甘い時間の始まり
紅の國で暮らすようになってから、結花は侍女たちの仕事を手伝わせてもらっている。
部屋にいても、やることがない。
それなら働かせてほしいと願い出て、どうにかヴァルガスを説得したのだ。
紅の國の軍は男所帯だ。
炊事、洗濯、掃除――侍女たちは朝から晩まで忙しく立ち働いている。
「素人ですけど……」
遠慮がちに申し出た結花を、マリナはあっさり受け入れてくれた。
――ヴァルガスの紹介があったことも、大きいのだろう。
今日は、そのマリナに厨房を少し借りたいと頼んでみた。
「火の扱いだけは気をつけてくださいね」
許可が出た瞬間、結花の胸が弾む。
さっそく材料を確認する。
「卵……砂糖……牛乳もある」
棚をのぞき込み、思わず小さく声を上げた。
「あ、蒸し器も」
この材料で作れるものといえば――
……プリンだ。
冷蔵庫はないが、今は夏ではない。
井戸水や風通しの良い場所を使えば、十分冷ませるはずだ。
結花は、お菓子作りが好きだった。
凝ったものは無理でも、プリンなら何度か作ったことがある。
家族にも好評だったし、きっとなんとかなる。
――こちらの人の口に合うかは分からないけれど。
でも、団子の作り方はさっぱり分からない。
みたらしって、どうやって作るんだろう。
今度、マリナさんに教えてもらおう。
結花は袖をまくり、深く息を吸った。
卵を割り、砂糖と混ぜる。
温めた牛乳を合わせ、器へ流し込む。
蒸し器にかけ、火加減を見守る。
蓋を開けた瞬間、
「……できた」
ほっと息をつく。
表面はなめらかで、すも入っていない。
蒸し加減も完璧だ。
味見も問題なし。あとは冷ますだけ。
厨房を貸してくれたマリナに礼を言い、試しにひとつ渡すと、彼女は目を丸くして喜んでくれた。
その様子に少し安心しながら、結花はプリンを盆に載せ、小ぶりの匙も添える。
廊下を歩いていると、中庭から聞き慣れた声がした。
視線を向けると、ユーリスとサイガが何やら話している。
結花に気づいたのか、サイガが先に振り向いた。
「あれ。噂をすればユイカじゃない?」
「っ……サイガ!」
からかうような声とは対照的に、ユーリスはわずかに動揺した顔でこちらを見る。
……噂?
何を話してたんだろう。
「こ、こんにちは。ユーリスさん、サイガ」
どうしても声が少し硬くなる。
軽く頭を下げると、ユーリスは一瞬視線をさまよわせた。
サイガの目は、すでに盆の上に向いている。
「本当に作ったんだ。……それ、何?」
「えっと……私の世界ではよくあるお菓子で、プリンって言います」
「……甘味?」
ユーリスの目が、ほんのわずかに輝いた。
さっきまでの気まずさが嘘みたいに、その表情がやわらぐ。
……やっぱり、本当に好きなんだ。
結花の緊張も、少しだけほどけた。
「はい。さっき厨房を借りて作ったんです。少し冷ましたほうが美味しいので……」
「へえ。このままじゃダメなの?」
サイガが面白そうにのぞき込む。
「食べられなくはないですけど、やっぱりそのままだと……」
――今だ。
ここで言わなきゃ、作った意味がない。
意を決してユーリスさんの方を見る。
……心臓がうるさい。
「あ、あの……もしよければ、後で食べてもらえませんか」
ユーリスが、ほんの一瞬目を見開く。
「……俺が?」
「は、はい」
顔が熱い。
絶対赤い。
ユーリスは一瞬視線を落とし、それから盆の上のプリンを見た。
甘い香りが、ふわりと漂う。
彼は静かに小匙を手に取る。
その動きは妙に真剣だ。
「今、食べても?」
「えっ? でも、冷ましたほうが――」
「……待てない」
その赤い瞳が、ほんのわずかに輝く。
もう、断れない。
「ど、どうぞ」
消え入りそうな声でそう言うと、ユーリスはゆっくりと一口すくった。
結花の喉が鳴る。
――どうか、美味しくありますように。
ユーリスは無言のまま飲み込み、ほんの少しだけ目を閉じる。
そして。
「……うまい」
たった一言。
でもそれだけで、胸の奥が一気にほどけた。
「ありがとうございます。そう言ってもらえて……嬉しいです」
結花が答えると、ユーリスは一瞬だけ目を見開き、それからふっと微笑んだ。
その笑みに、胸がまた騒ぎ出す。
「ほらね。言った通りじゃん」
サイガがにやりと横から口を挟む。
「さっきさ、こいつ。ユイカに嫌われたんじゃないかって、わりと本気で落ち込んでたよ」
「え?」
「サイガ」
ユーリスの顔が赤くなる。
「別に……落ち込んではない」
「でも、気にしてたでしょ?」
さらりと返され、ユーリスは言葉に詰まる。
結花は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
――気にして、くれてた?
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「で? 俺も一つもらっていい?」
空気を切り替えるように、サイガが盆を指す。
「あ、はい。どうぞ」
「ありがと」
サイガは一つ取ると、ひらひらと手を振って去っていった。
残されたのは、二人だけ。
けれどその沈黙は、朝の気まずさとは違う。
結花は、ゆっくりとユーリスを見る。
まだ少し赤い横顔。
「ユーリスさん」
心臓は、まだうるさい。
それでも。
――今は逃げない。
「今度は……ちゃんと冷ましたものを、渡しますね」
ユーリスは、わずかに目を細めた。
「……ああ。頼む」
――もう。
完全に負けた。
それから、
縁側で甘味を囲むのが日課になった。
冷ましたプリンも、
甘い団子も、
たまに少し失敗した何かも。
ユーリスさんは、変わらず静かに「うまい」と言う。
そのたびに、胸の奥が少しずつほどけていった。




