10話 彼に近づくために
基礎練習を終え、結花は縁側に腰を下ろした。
朝の空気は澄んでいて、少し汗ばんだ肌に心地いい。
そのとき。
廊下の奥から足音が近づいてくる。
顔を上げた瞬間、視線がぶつかった。
……ユーリスさん。
思わず背筋が伸びる。
「お、おはようございます、ユーリスさん」
「おはよう、ユイカ」
穏やかな声。
けれど――
……あれ?
気まずい。
「き、今日はいい天気ですね」
「……そうだな。稽古日和だ」
沈黙。
早くない? 途切れるの。
何か、何か話題を――
そう思っているうちに、ユーリスさんは一瞬だけ目を伏せる。
「将軍のところへ行く」
「あ、は、はい。いってらっしゃい」
その背中が廊下の向こうに消えていく。
見えなくなってから、ようやく息を吐いた。
「……なんでこうなるの、私」
両手で顔を覆う。
戦場ではあんなに普通に話せたのに。
命の危険がなくなった途端、緊張が勝つなんて。
視線が合うだけで心臓がうるさい。
同じ屋敷で暮らしているのに、まともに会話もできない。
このままじゃ、嫌われてしまうかもしれない。
「そんなの……やだ」
「何呟いてるの、ユイカ」
「サイガ!?」
顔を上げると、いつの間にか廊下に立っていた。
……足音、まったくしなかったんですけど。
「どうしたの。その顔」
「……ちょっと落ち込んでるんです」
「へえ」
「泣きたい気分ですよ! なんで私、ユーリスさんの前だとあんな態度になるんですか」
サイガは少しだけ目を細めた。
「ああ……あれね。
ユーリスの前だと、急に静かになるやつ」
「なっ……!」
「普段はこんなに強気なのに」
「強気じゃありません!」
「そう?」
口元だけが笑っている。
……くやしいけど、否定できない。
「サイガ相手なら、普通に話せるのに……」
「俺は安全圏ってこと?」
「だって……緊張しませんし」
「それはそれで、傷つくんだけど」
「昨日の“あれ”の仕返しだなんて、思ってませんよ?」
にこ、と笑ってみせる。
一瞬だけ、サイガの視線が逸れた。
「……まだ根に持ってる?」
「どうでしょう?」
ほんのわずかに肩をすくめると、彼はすぐにいつもの調子に戻る。
「ユーリスと話したいなら、話題でも作れば?」
「えっ? ちょ、サイガ……どうしたんですか。急に優しくなって。変なものでも食べました?」
「へえ」
片眉が上がる。
「俺の親切な助言、いらないの?」
「すみませんでした!」
反射的に頭を下げる。
危ない。せっかくの情報源を逃すところだった。
「で? ユーリスの趣味が知りたいんでしょ?」
「はい! 稽古とか鍛錬以外でお願いします!」
もしそれだけだったら絶望的だ。
あの熱量に毎日付き合ったら、確実に倒れる。
サイガはくつくつと笑った。
「実はね、あいつ――甘いもの好きで有名なんだよ」
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
「甘いものって……お団子とか、お汁粉とか?」
「正解。あとは季節菓子とか。遠征のたびに土産頼まれる」
「ええ!?」
そこまで……?
「味にはうるさいよ」
……ユーリスさんが、真剣な顔で団子を選んでいる姿。
想像してしまった。
刀を握る時と同じ顔で、団子。
だめだ。
反則。
「何その顔」
「いえ……なんか、ちょっと安心しました」
「安心?」
「私も甘いもの、好きなので」
胸の奥が少し軽くなった。
結花はサイガに向かって、ふっと笑う。
「ありがとう、サイガ」
「ま、うまく生かしてよ」
「さっそく侍女さんと相談して、甘味作りに挑戦してみます!」
「え?」
珍しく、サイガの声が裏返る。
「作るの? ユイカが?」
「はい!」
思いきり頷く。
「あとでサイガにもあげますからね!」
そう言い残して、結花は厨房へ走った。
少し遅れて、肩をすくめる声が聞こえる。
「……あーあ。火、ついちゃったね」
そのまま、彼の気配はふっと消えた。




