「彼女」と「彼」の違い②
七色の森は、クリスタルの枝葉を広げた木々が、月の光を浴びて、その名の通り、柔らかな虹色に輝いていた。
その光が揺らめく道を、オシアンに手を引かれて二人きりで歩いていると、まるで夢の中にいるようだった。
「ここは、本当に綺麗なところだな……」
ヒルダがそう呟くと、オシアンが優しく微笑んだ。
「君が気に入ってくれて嬉しいよ。ここは君の国でもあるのだから」
ヒルダはオシアンの甘い微笑みに束の間見惚れ、それから、ふいと目を逸らした。
「……そういえば、フィンたちは、この前来た時には私のことを『王妃様』と呼んでいたのに、今夜は『女王様』と呼んでいたな」
オシアンがくくっと笑った。
「きちんと教えておいたのだよ。君はこの国の王たる我の主、つまり女王だと」
「それは……誰も文句を言わないのか?」
「言うはずがない。猫型妖精は皆、君が女王としてこの国に来ることを待ち望んでいたのだから」
言われてみれば、この国の住人たちは皆、ヒルダに対して優しかった。
「そういえば、フィンとコナンとオスカーも言っていたな。『いっそもうずっと、この国においでください』って。それから、今度私が無謀なことをしたら、オシアンは私を城に閉じ込めてしまうだろうって」
ヒルダがオシアンの正面に立ってその目を覗き込むと、急に強く抱き締められた。
「実を言えば、初めて君に会ったあの日から、そう思わない日はないのだよ、愛しいヒルダ。君を連れ去って、城の奥深く、永遠に我が腕の中に閉じ込めてしまいたいと。……今も、そうだ」
ヒルダの心臓が高鳴った。心の何処かで、是非彼にそうしてほしいという自分の声が聞こえた。
しかし、オシアンの声には力がなかった。
「だから、君があの女の魂を責め立てるのを聞いていて、気が気ではなかった。……君が、我の本心を知れば、やはりあの怪物と同じだと責めるのではないかと」
オシアンの心臓が早鐘を打ち、ヒルダを抱くその指先が冷たくなっていた。
「……私の愛しいボンボンショコラ。『狡猾なるオシアン公』と呼ばれ恐れられる君のことだ、いくら主従契約を結んでいたところで、その気になれば、卑怯な手段で私を自分のものにすることだって出来たはずだよな。その昔、君よりもずっと格下だった使い魔に連れ去られた聖騎士団員もいたくらいだ。使い魔契約の鎖が完璧じゃないことくらい、私だって知っている」
しかも、ヒルダはいつもオシアンに対して完全に無防備だった。食事の用意は完全に彼任せだし、猫の姿の彼を抱き締めたまま、朝まで眠ってしまったことも何度かある。
「それでも、君は私から何かを奪ったり、取り上げたりしなかった。私が若い頃、早くロバートのことを忘れろと言ってきた人間が数えきれないほどいたけれど、君は、覚えていて良いんだと言ってくれた」
打算からにしろ、善意からにしろ、ロバートを忘れろと言われることはヒルダにとって大きな苦痛だった。何故なら、彼と過ごした日々も、大切な彼女の人生の一部で、親友エズメとの繋がりの一つだから。
「出会った時から私のことを攫ってしまいたいと思うくらい、好きでいてくれたんだろう。それなら私が他の男のことを想って泣いているなんて、きっと不愉快だったに違いないのに」
「……それよりも、我のいないところで君が一人泣いている方がずっと胸が痛む。ただそれだけだった」
オシアンの冷えた指先が、ヒルダの髪を梳くように撫でた。
ヒルダは顔を上げ、オシアンの目を見つめた。
「それに君はいつだって大切にしてくれるんだ。私が大切にしているものも、大切にしたかったものも、全て、ね」
例えば、とヒルダは言った。
歩き始めたヴィーナス・モリーが、大人たちの目が離れた隙に箪笥をよじ登り、その頂上から落ちたのを、咄嗟にオシアンが抱き止めてくれたので無事だったこと。ヴィーナスがぐずると尻尾であやしてくれたこと。その尻尾を掴まれて齧られても少しも怒らなかったこと。
「あれは、咄嗟に身体が動いただけだった。尻尾については、幼い頃の妹や弟たちに比べれば痛くなかったのでね。それに我は、君が幼いモリー嬢を抱き締めている時にだけ見せる、満ち足りた表情が好きだった」
それは知っている、とヒルダは思った。彼女も、自分たちを見守ってくれる、オシアンの優しい眼差しが大好きだったのだ。
「……マチルダ・ターナー夫人とアイリーン・スターリングの仕打ちだって、よく堪えてくれたよ」
あれは屈辱的な出来事だった。ターナー夫人から手紙が送られてきたのだ。今後一切、薔薇荘に来ないでくれ、娘に対するマクユーアン氏の侮辱は許し難く、ヒルダの粗暴さは幼いモリーの教育に良くないから、と。ヒルダはすぐに弁明の手紙を送ったが、返事はなかった。
「ターナー夫人にかかっていた魅了を解けば、ターナー夫人の自我が崩壊することは分かっていた。あの頃、モリー嬢の力が安定するまでは、薔薇荘の護りの中でターナー夫人に育てられるのが最善だったので、手出しが出来なかったのだよ。……正直に言えば、アイリーン・スターリングについては、我の驕りが招いたことでもある。あの女を弱い人間の女風情と侮り、まんまとしてやられた」
オシアンにとって痛恨の一事だったのだろう。彼がヒルダを抱く腕に力が入った。
「無論、あの女に報復することも可能だった。ヒルダも知っての通り、使い魔契約の鎖は大して強いものではないのでね。しかし、我は君との繋がりが断ち切れてしまうことを恐れていた」
オシアンは弱々しく心情を吐露した。使い魔だからこそ、彼がどこにいてもヒルダの声が届く。力を使い切っても彼女の元に帰れる。その繋がりを断ち切るくらいなら、愚かな自分は色々なことに目を瞑ってしまうのだ、と。
ヒルダはそんなオシアンの背中を、ゆっくり撫でた。
「エズメのことだって尊重してくれた。私とエズメが同時に危ない目に遭った時には、私だけでなく、エズメのことも助けてくれた」
「我は、エズメ嬢と共にいる時の君の、溌剌とした笑顔も好きなのだよ。それに、君の側に我が付いていられない時に、君を任せられる人間はエズメ嬢しかいない」
ヒルダにとってその認識は少々不本意だった。
「……私はそんなに危なっかしいか?」
「それはもう、歩き始めた頃のモリー嬢よりもずっとね」
「そこまで言うことないだろう」
ヒルダが少しむくれてみせると、オシアンが心底愛おしい、と言わんばかりにヒルダの頰をその指先で撫でた。彼に少し顔色が戻ったようなので、ヒルダはいよいよ、この前から聞きたかったことをぶつけた。
「私付きの三人組の、あの一番優しい子。あの子は、私の子になるはずだった子なんだろう?」
オシアンが、虚を突かれた顔をした。
「……何故、オスカーだと?」
ヒルダは、苦笑した。
「ボンボンショコラ。私は確かに本を読むのは苦手なんだけどね、古典叙事詩の内容なら、そこそこ知っているんだよ。エズメがよく読み聞かせてくれたからさ」
オスカーは、古典叙事詩に登場する騎士だ。その父は、英雄詩人オシアン――。
「オシアン。オスカーは、『オシアンの息子』の名だろう?」
三十数年前。生まれることなく命を落とした幼い魂は、ずっと母となるはずだったヒルダの側にいたのだ。オシアンがヒルダと共に、彼を新たな生へと送り出すまで。その子はオシアンのような猫型妖精に生まれ変わることを望み、まだ子どものなかった若い猫型妖精の夫婦の元に旅立った。
「オスカー本人から聞いたよ。名付け親は君だって」
どれほど生まれ変わってもオシアンは、その魂をすぐに見分けることが出来るから。
「君は、あの子のもう一人の父親になってくれたんだな」
もう少し続きます。
オスカーの性格は、ちょっぴり泣き虫だけど、心優しい頑張り屋さんです。……なのに戦闘能力は結構高いので、やっぱりヒルダの子になるはずだっただけのことはあるかと。両親の名前は、ディランとブランウェン。ディランは凄腕の魂捕縛者で、ヴィヴィアンの魂の欠片を手際良く掃除していたのがブランウェンです。




