「彼女」と「彼」の違い①
深夜。部屋のドアを躊躇いがちにノックする音が聞こえて、ヒルダは目を覚ました。
ベッドから降りてドアを開けたが、相手の姿は見えない。しかし、よく知った魔力の気配がそこにある。
彼女は少し苦笑すると、下を向いた。
見慣れた猫の顔が彼女を見上げ、こう言った。
「夜分に済まない、ヒルダ。君はもう休んでいるだろうとは思ったのだがね」
「ボンボンショコラ。もう夫婦なんだから、私の部屋に来るのに、わざわざその姿でなくても良いし、いつでも好きな時に入ってくれて構わないのに」
彼女がオシアンを部屋に招き入れると、オシアンは素直に入って来た。
「君がそう言うと分かっていても、我は最愛の貴婦人に対する騎士としての振る舞いを忘れたくないのだよ」
彼はヒルダの手を取り、その甲に軽く口付けを落とした。尖った口の先がくすぐったくて、ヒルダは思わず、ふふっと笑った。
見事な毛並みの猫の姿が、彫りの深い美しい顔立ちに深い知性と高雅さを感じさせる、五十代半ばの人間の男性の姿に変わった。彼の纏う衣服は華美ではないが、黒を基調とした上質の布を丁寧に仕立てたもので、公的な場に相応しいものだった。
「それでボンボンショコラ、皆が寝静まったこの時間に、どういう内緒話かな?」
「君が、ヴィヴィアン・レイクの魂への処断を見届けたいと思っているのではないかと思ってね」
「ああ、そういえば猫型妖精たちの声がしたな。……そうだ、あれはディランとカイの声だった。あの女の魂は捕縛対象になるほどの穢れを負っていたのか?」
北部連邦で穢れた魂を捕縛する担当の猫型妖精の名を挙げると、オシアンは頷き、更に説明してくれた。
「穢れを負っていた上に、罅割れも多かったようだ。禁術を繰り返し使用したことが理由だと考えられる」
ヒルダはさもありなんと思い、それからあることに気付いた。
「寝間着では不味いだろう。すぐに着替えるから、待っていてくれないか?」
「心配は要らない。よく見てご覧。君はもう既に、相応しい衣装を纏っている」
ヒルダが自分の着ている物をよく見ると、それは胸下に切り替えのある、ゆったりとしたシルエットの絹のドレスに変わっていた。銀糸で施された草花の刺繍には小さな宝石も縫い付けてあるのか、ランプの灯りでキラキラと輝いた。袖は絹のレースで、肩から控えめに膨らみ、手首のところできゅっと締まっている。
部屋の鏡に自分の姿を映すと、髪も美しく結い上げられ、この季節には珍しいスイカズラの花が飾られていた。鏡を見ると、ドレスも、スカートの後方は優雅にトレーンを引くタイプだと分かる。神話に登場する女神のドレスのように、何処か浮世離れした装いだった。
「とても綺麗だよ、ヒルダ。我が主にして最愛の妻、全ての猫型妖精の女王よ。我からの捧げ物をどうか受け取ってほしい」
オシアンが、大きめに開いたヒルダの胸元を飾る紅玉のネックレスを手ずからつけながら、彼女の耳元に口を寄せてそう囁いた。
ヒルダは顔と耳が熱くなるのを感じながら、彼の手を取り、妖精の輪の中に足を踏み入れた。
着いた場所は妖精の国の城で、彼女が昨年この城で療養していた時に世話をしてくれた幼い猫型妖精のフィン、コナン、オスカーの三人が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、国王陛下。お待ち申し上げておりました、女王陛下」
三人組の中で少し年長のフィンが、以前会った時よりも洗練された礼で迎えてくれた。
「君がここにいる時には侍従が必要だからね。この三人を正式に任命したのだよ」
オシアンがそう言うと、フィンは勝ち気な顔で、コナンは朗らかに、オスカーは少しはにかむ様子で、それでも揃って誇らしげに胸を張った。
「僕たち、精一杯お仕えいたします!」
予め話し合っていたのだろう。三人はぴしっと姿勢を正して横に整列し、中央に立ったコナンが三人を代表してそう誓った。
「そうか。よろしくな」
ヒルダが三人に微笑みかけると、三人は嬉しそうに喉を鳴らした。
審判の間は暗く陰鬱で、仄暗く濁った光を放つ魂が一つ、部屋の中央に浮かんでいた。
――何故私が罪人の扱いをされなければいけないの。私はただ愛し、愛されたかっただけなのに。
ヴィヴィアンの魂が喚いていた。天涯孤独の身の上、聖騎士団員を騙る男に何もかも奪われた過去。その中で、やっと真実の相手と巡り会えたと思ったのだ。幸せになろうとしただけなのに、「ドラクールの怪物」と同じだなんてひどい、と。
オシアンと並んで玉座に着いたヒルダは、哀れな魂に向かって声をかけた。
「幾つか聞きたい。お前に魔法で囚われていた男は、責任感が強く、愛情深い男だ。きっと魔法が解ける度にお前を故郷に連れて帰ろうとしたはずだ。共に帰って彼の家族と一緒に暮らそうとは思わなかったのか?」
ヒルダがヴィヴィアンの魂にそう尋ねると、ヴィヴィアンの魂がボロボロと欠片を落としながら震えた。
――彼が他の女との間に儲けた子どもなんかと一緒に暮らせないわ。子どもなら、私が産んであげるつもりだったのよ!
「でも、産めなかっただろう。子が宿ることすらなかったはずだ。死せる女神の魔法は使用者の生命力を削るんだ。その場合、最初に犠牲になるのは子を為す能力だよ。魔法を使ったのが一度くらいなら、まぁ早産か酷い難産の果てに一人くらいは生まれたかもな。でも、何回も魔法を使ったんだ。子どもを産むどころか、お前自身の命さえ大幅に削って。それで、幸せになれたか?」
――彼さえいれば良かったのよ。彼が愛してくれるなら。
「偽りの愛だよ。魔法で植え付けただけの。虚しくなかったか?」
――……虚しく、なんて。
「虚しくなかったなら、もう見込みはないな。お前のやっていたことは単なる人形遊びのようなものだよ。それも小さな女の子から取り上げた人形でね。とても大人の女のすることじゃない」
――貴女に何が分かると言うのよ!
「うん、何でお前みたいな女って『この世で自分だけが不幸』って被害者ぶるんだろうな。お前はチャンスを逃しただけだ。あの男の故郷に行けば、世界で一番可愛くて優しい娘が、お前をいずれ『母』と呼んでくれただろうに。もしかすると、その下に一人くらいは子どもも生まれたかもしれない。ところでお前、あの男の故郷の家が荒野の掘っ立て小屋だとでも思っていたか?」
ヒルダは連合帝国本土の人間が、しばしば北部連邦を極寒の荒野だと思い込んでいるらしいことを思い出しながらそう聞いてみた。
「とんでもない。あの男の故郷は本当に美しいところなんだ。恵み豊かな森の中、薔薇とラベンダーに囲まれた立派な屋敷があいつの本当の家だ。近くの町の誰もが一目置く家だよ。馬鹿な嫉妬さえしなけりゃ、お前は今頃、名高き『薔薇荘』の女主人として幸せに暮らしていたのさ」
少しは自分が馬鹿なことをしたと悔やめば良いな、と思いながらヒルダはそう言った。後で幼い猫型妖精の糧になるにしろ、煉獄で焼かれるにしろ。
ガラス細工が硬い石の床の上に落ちた時の音がした。
ヴィヴィアンの魂が砕け散ったのだ。
ヒルダは呆然として砕け散った魂の欠片を見つめた。
「……どうしよう、ボンボンショコラ。まさか、あんなふうになるなんて」
「全く問題ない。我が愛しの妻、麗しきこの国の女王よ、ああいうことは、時々あることなのだから」
オシアンが狼狽するヒルダを抱き寄せ、指さした先では、粉々に砕けた石炭のような魂の欠片を、箒とちりとりを手にした愛らしい猫型妖精たちが、手慣れた様子で掃き集めていた。
「愛しい人。気分を変えに、七色の森に散策に行こう」
「聖騎士団長、猫型妖精の王に諭される」の番外編に登場した三人組を再登場させました。ところで三人組の中に、ヒルダの子の生まれ変わりがいるのですが、名前だけでどの子か分かった方はかなりのケルト好きだと思います。




