〈番外編〉雨の日の二人③
オシアンは、そっとヒルダを抱きしめた。
「確かに、君と出会ってからあの朝までの何年かは、父親か兄のような……といっても、実際にはそれよりも遥かに歳が離れているから、そう思うことさえ烏滸がましいかもしれないがね、とにかく、そういう立場で君を守ろうと思っていた。もしも若い君に相応しい年頃の、君を託すに足る人間の男が君の心を掴んだ時には祝福しなければならないと、数え切れないほど自分に言い聞かせもしたのだよ」
だから、本能のままにヒルダを噛んでしまった時、自分はヒルダの人生を台無しにしてしまったのだと思った、とオシアンは白状した。
「おかしな奴だな、毎日せっせと私を妖精に変えようとしていたくせに」
ヒルダが苦笑すると、ヒルダを抱きしめるオシアンの腕の力が少し強くなった。
「一応、君が毎日神酒を混ぜた食事を摂り続けても、そう簡単には妖精にならないように、術には残り二つの段階を設けていた。君が我からの愛を受け入れてくれた時には、寿命こそ人間と同様だが、病気や外傷によって簡単に命を落とすことはなく、最高級の治癒魔法にも耐えられるように。そしてもし、君が本当の意味で我が妻となった暁には、君を高位の妖精に変え、我が余命と同じだけの命数を与えると」
そしてあの日、オシアンはヒルダに魅了が効かなかったことに安堵した後、ヒルダの気配の変化に気付いた。それで彼にもようやくわかったのだ。ヒルダが彼の愛を受け入れてくれたのだと。
「……よもや、君の認識が『飼い猫からの愛を飼い主として受け入れた』という程度でもそうなるとは思いもしなかった。しかし、結果的にはそれで良かったと思う」
彼はヒルダの左手を取り、親指の腹で愛しげに撫でると、そっと持ち上げて彼女の指の一本一本に唇を落とした。もし彼の術が成っていなければ、その左手は、昨年の戦闘で失くしていただろう。
ヒルダは眉間に皺を寄せた。この際、彼の誤解を解いておかねば、と。
「……いや、だから言っただろう、愛し始めてたんだ。確かに猫の姿の君もとても素敵だけど、そうじゃない。あの酷い嵐の晩に外に飛び出そうとした私を必死で抱き留めていてくれた君を、だよ。……まぁ、あの晩のことは、あまり思い出さないようにしてたけど」
「何故?」
オシアンから不思議そうに尋ねられ、ヒルダは眉間の皺を深くした。実のところ、あまり言いたくはなかったのだが。
「……思い出したら、もう一度君に、強く抱きしめてほしくなってしまいそうで」
オシアンの左手が、ヒルダの肩を更に強く抱き寄せた。低く甘い声が、耳元で囁いた。
「愛しい我が紅玉、君が望むのなら、いつでも何度でも我は喜んで応じるというのに」
窓の外で、激しい雨の降る音が聞こえ始めた。
オシアンがヒルダの左手を離し、彼女の頬に手を添えて、優しく上を向かせた。
彼のペリドットの瞳に、魂の奥まで見つめられている気がした。……いや、おそらく実際にそうなのだろうな、とヒルダは思った。こうなると、隠し事など出来はしない。
「オシアンを困らせたくなかったんだ。君は私の言う事は何でも聞いてくれるから、余計にそんなことは言えなかった。私が君をロバートの身代わりにしたがってるだなんて絶対に思ってほしくなかったし、……それに、何でも出来て、地位も美貌も財産も持ち合わせている君なら、望めばどれほど高貴な美女だって思うままだろう。私なんか君には相応しくないって思ってた」
オシアンが静かに首を振り、ヒルダの目を見て、ゆっくりと言い聞かせた。
「ヒルダ、輝かしき我が女王。何度でも言おう。我を本当の意味で満たせるのは、君だけだ」
「……うん。それはもう、身と心に沁みて分かってる」
そうでなければ、本来は面倒なことを好まない猫型妖精の王が、ヒルダを妖精に変えるために、あれほどの手間暇をかける訳がない。それに、あの日ヒルダに魅了が効かなかったことに最も安堵したのは他ならぬオシアン自身なのだろうということも、何となく察していた。
「私も君も、似ていないようで、どこか似ているんだな。肝心なところで自信が持てなくなってしまうんだ。リューみたいに、好きな相手に向かって一直線に走って行ける性格なら良かったんだけど」
ヒルダが挙げたのは、聖騎士団本部に所属する最年少守護者の名前だった。彼が同い年の一級守護者メグに向ける想いは、どこまでもまっすぐだと分かる。
彼からは、自分が彼女に相応しくないのならば相応しくなるために努力をしよう、複雑な事情を抱える彼女の盾にも矛にもなろう、という気概が感じられるからだ。
オシアンも笑って頷いた。
「あの子はまだ若く、怖いもの知らずだからね。だが、確かに我にも、あの子の勢いを羨ましく思う時がある」
「だから、あの子に肩入れしてるのか?」
ヒルダが笑ってそう尋ねると、オシアンはヒルダの額に自分の額を押し当てた。
「……確かにそれもある。だがそれよりも、あの子は我と君との間に生まれた末の息子のような気がして仕方がないのでね」
ヒルダは一抹の不安を覚えた。
「やっぱり、オシアンも自分の子どもがほしかったのか?」
ヒルダは、オシアンと出会った時には既に子を望めない身体だった。そのことについてオシアンは、それでも良い、猫型妖精の王位継承は血統ではなく実力で決まるのだから、と言ってくれた。だが、いつも彼は楽しげに子どもや若者の面倒を見ている。それほど子どもが好きなら、実子がいないことを内心では寂しく思っていても不思議ではない。
オシアンは、そんなヒルダの不安を感じ取ったのだろう、彼女の背をゆっくり擦った。
「済まない、語弊のある言い方だった。いつも君が、『聖騎士団の若者たちは自分の子も同然だ』と言うものだからね、我の方でも『それならば当然、我が彼らの父親だ』というつもりでいるのだよ」
「そうなのか?」
ヒルダが首を傾げるとオシアンは頷いた。
「我が継父ブラン将軍の信条は『愛する女性の産んだ子を我が子として大切に出来ない男に、その女性への愛を語る資格はない』ということだった。実際、継父が命懸けで守ってくれなかったら、我と我が妹ミュリエルが生き延びることは難しかっただろう。故に、我も継父のその信条を継ぐと決めたのだよ」
「オシアンの継父というと、カイのお父上だな。そうか、そういう御仁だったんだな――」
ヒルダはオシアンの継父であり、オシアンの弟の実父でもある人物に感銘を受け、はたと気付いた。
「ちょっと待て、オシアン。まさか、あれだけの人数を私が産んだと見做しているのか?」
そう問うヒルダの声は悲鳴に近かったが、オシアンは平然としていた。
「勿論、よくぞこれだけ頑張って我の子を産んでくれたものだというつもりでいるとも」
幾ら何でもそんなに産める訳がない、と言いかけたヒルダだが、以前、ミュリエルから聞いた、猫型妖精の中には生涯に数百人の子を産む女性もいるという話を思い出した。ならばオシアンの中では、一組の夫婦の間に子どもがどれだけいても、何もおかしなことではないのだ。
そこでヒルダは、もう一つ気になることを聞いた。
「それは、いつからの話だ?」
「当然、君が聖騎士団の若者は自分の子も同然だと言い出した時からだよ」
ハワードがアーケイディア単科大学に入った時期からだ、とヒルダは気付いた。元々他の妖精の王たちほどハワード卿に関心を向けていなかったオシアンが、ハワード卿に親身に接するようになり、ヒルダの姪ヴィーナス・モリーとハワード卿の結婚を後押しするまでになったのも、要するに――。
ヒルダは夫の胸に額を預けて微かに笑い、「それならそれでも良いか」と呟いた。
猫型妖精も一回の出産で生まれる子どもの数は一人か二人であることの方が多いです。
ヒルダはミュリエルの話してくれた猫型妖精の伝説を事実だと勘違いしています。




