〈番外編〉雨の日の二人②
「……君には、本当に申し訳ないことをしてしまった」
その日は、オシアンにとって痛恨の出来事から始まった。あろうことか、彼は誰よりも大切なはずの女主人を噛んでしまったのだ。眠っていたところを繰り返し撫でられて半覚醒の状態だったとはいえ、到底許されることではなかった。
ヒルダの方は、噛まれた右手を押さえ、驚いた顔をしてオシアンを見ていた。甘噛みのつもりだったので血が滲むほど強く噛んだ訳ではないが、それなりに痛かったはずだ。
「いや、そんなに気にするなよ。悪気があったわけじゃなくて、少し興奮しただけなんだろう?」
ヒルダから「こっちも構い過ぎたから」という言葉が返って来た時、オシアンは咄嗟に返事が出来なかった。
彼女を魅了しようとしたのか、愛情表現のつもりだったのか、もはや彼自身にも分からない。夢現にヒルダの手の感触と甘い声に恍惚としているうちに、束の間、彼の理性が消えた。覚えているのは、彼女は自分のものだという本能の声だけだ。
ヒルダの痛いと言う声で我に返った時には、既に噛んでしまった後だった。
猫型妖精は極めて魅了能力の高い種族だが、とりわけ、他種族の肌に対して歯を当てる行為には、最も強い魅了の効果がある。おそらく、遠い祖先が敵から身を守り、獲物を確実に仕留めるために獲得した能力だからだろう。しかも一度噛むと相手の魔力に痕跡が残るので、魅了の効かない同族同士であっても、相手が家族か恋人の場合にのみ許される愛情表現だとされている。
ヒルダは強い破魔の力を持つので、魅了の効果は限定的かもしれない。しかし、美の女神フレイヤの血を引くオシアンの魅了能力は歴代の猫型妖精の王のそれを遥かに凌駕する。故に彼には、全く今後の予想が付かなかった。
彼は言葉を選びつつ、恐る恐る尋ねた。
「……その、何か違和感はないだろうか。……我に対して普段思わないようなことを思ったり、全身に熱っぽさを感じたり、身体の奥がぞくぞくするような感覚を覚えたりするようなことは?」
「落ち着け、ボンボンショコラ。大丈夫だ、私は本当に全く怒っていないから。それに血が出るほど噛まれた訳じゃなし、化膿して熱が出る心配はないよ」
へらっと笑って見せるヒルダを見て、オシアンは溜め息をついた。
「我としては、殴られるなり罵られるなりした方が、いっそ気が楽なのだが。……とにかく、ドミニクに、君が今日から一週間は欠勤すると伝えねばならない。帰ったら君の言うことは何でも聞くから、しばらくこの部屋で待っていてくれるね?」
オシアンは身支度を整えた人間の姿に変わると、部屋のドアと窓に封じ込めの魔法をかけ、すぐに聖騎士団第二隊の事務所に赴いた。
当時の第二隊長ドミニクは、聖騎士団第二隊事務所の隊長室で机に向かって仕事をしていた。いつものように、部屋の奥のカーテンの向こうに自身の使い魔であるタレイアを隠して。
「閣下、如何なさいましたか」
表情に乏しいドミニクが微かに目を見開いたが、オシアンはそれに注目するどころではなかった。
彼はドミニクに向かい、口早に言った。取り返しの付かないことをした、ヒルダを誤って噛んでしまったのだ、と。
ドミニクがオシアンの言葉の意味を理解するのに、十秒ほど必要だった。彼は手にしていたペンを落とし、血相を変えて立ち上がると、つかつかと歩いて来て、オシアンの胸倉を掴んだ。
「……何という無体なことをなさったのです。私が前聖騎士団長ニコラス卿からお預かりしている部下に!」
それは、オシアンの魅了能力を知っている者ならば当然の反応だった。何しろ、噛まれた者は死ぬまで正気に戻らないこともあり得るのだから。
「……中和剤は、あるだろうか?」
胸倉を掴まれたままオシアンがそう尋ねると、ドミニクはオシアンから手を離し、俯いて首を振った。
「……この世には、普通の猫型妖精を原料とした『愛の秘薬』の効果を取り消す中和剤すらないのです。まして猫型妖精の王に噛まれた者のための薬など、存在するはずがありません」
一応、ヒルダには一週間の休暇を与えるが、彼女が休暇明けに聖騎士団に戻れる保証は何処にもない、とドミニクは言った。その理由はオシアンにも解っていた。一週間で正気に戻るかどうかも判らず、正気に戻ったとしても、彼女の精神に消えない苦痛が残る可能性もあるのだ。
と、その時、タレイアの声がした。
「シンパイ、ヒツヨウ、ナイ。ヒルダ、ミリョウ、コウカ、ナイ。スグ、クル」
隊長室のドアが開いた。
「すみません、眠っている使い魔を構い過ぎて噛まれてしまいました。当の使い魔が妙に気に病んでいるようで、部屋のドアと、窓にも何かの術をかけて出て行ってしまったので、出て来るのに手間取ったのですが――」
いつも通りのヒルダが、そこにいた。
「ダカラ、イッタ」
タレイアの嬉しそうな声が聞こえた。
ドミニクは、何ともない様子のヒルダに向かい、やや腹立たしげに言った。
「ヒルダ・フォスター。眠っている使い魔には手を出すなと、アーケイディア単科大学で教授から学ばなかったのか。それから、この第二隊では猫型妖精に噛まれた者は一週間の自宅謹慎だ」
次いで彼は、オシアンを見て言った。
「閣下、この場合の『自宅』は北部連邦のフォスター屋敷と解釈されても構いませんが、決して閣下の居城にはお連れになりませんよう。そこは少なくとも今は彼女の自宅とは言えませんので。一週間後には、必ずこの事務所にヒルダ・フォスターをお連れになり、二人で反省書を提出してくださいますよう、お願い申し上げます。それから先程の私の行動については謝罪いたしません。どうか聖騎士団に属する者として在るべき態度をお忘れなきように」
オシアンは胸に手を当てて一礼した。
「君のその言葉、必ずや肝に銘じると誓おう」
* *
「こうして我はフォスター屋敷に君を連れ帰り、君の耳目のない所で、君の爺やから散々叱責を受けた。今でも彼は我を許してはいないが、それも当然だ。大事な主筋の姫である君の魔力に、我に噛まれた痕跡が残っているのだから」
オシアンが「君の爺や」と呼んだのは、フォスター家の家令としてフォスター屋敷を守る、老いたブラウニーのことだ。かつてはヒルダとその妹のリディアの守り役でもあったその老ブラウニーは、オシアンの正体が猫型妖精の王と知っていながら毛筋ほども遠慮をしない。
「……それで爺やは君に対して当たりがきついんだな」
ヒルダはオシアンの話を聴いて、長年不審に思っていたことがやっと腑に落ちたと思った。……肝心なところからは目を逸らして。
いや、目を逸らしている訳にもいかないな、と彼女は思い直した。
「オシアン。……その、何というか、本当に済まなかった」
あの日の朝。目が覚めたヒルダは、思ったほど自分が絶望していないことに気付いた。
「側に君がいてくれて、とても嬉しかったんだ。君だけは絶対に私を一人ぼっちにしないんだ、ってわかったから」
だから彼女は、無防備に眠る彼に手を伸ばした。そっと彼の愛称を呼んで撫でれば、オシアンが夢現の状態で甘えてくれるのも嬉しくて、甘噛みもその甘えの延長線上にあるのだと思えば、むしろ――。
「……そうだな。思い返せば、私はあの朝から君のことを少しずつ愛し始めていたんだ。認めるのが怖かっただけで」
認めてしまえば、もし彼を失った時には、二度と立ち上がれないだろうとわかっていたから。
「それに、君はきっと私のことを恋愛対象じゃなくて、あくまでも主人として、でなきゃ世話の焼ける娘か姉妹として見てるんだと思ってた」
以上、「聖騎士団本部の最年少守護者は思い悩む」でドミニクが言及していた、「うっかり噛んでしまった事件」の全容でした。
ちなみに、近場を行き来する時は「妖精の輪」を使わない方が圧倒的に早いです。
もう少し続きます。




