〈番外編〉雨の日の二人①
極東の皇国には、「猫が顔を洗うと雨が降る」という伝承があるらしい。しかし、猫型妖精の王国には、もっと確実に、その日に雨が降ると分かる兆しがある。
猫型妖精たちが猫の姿を取りたがらない日には、必ず雨が降るのだ。
「おはよう、ヒルダ」
朝から人間形態のオシアンがヒルダを起こしてくれた。二人が猫型妖精の王城で暮らすようになっても、彼が手ずからヒルダの朝食を作ってくれることには変わりないし、食後にヒルダの癖の強い赤い髪を梳いて結ってくれることもいつも通りだ。
「今日は雨が降りそうだから、髪を纏めて結い上げておいた方が良い」
「そうなのか?」
「朝から、どうにも猫の姿を取る気になれないし、他の者たちも皆そう言っていた」
寝台に腰掛けて髪をオシアンに任せている時、ヒルダはふと、先月ベッキーの屋敷で開かれた「藤の花を愛でる会」で聞いた話を思い出した。
「そういえば、華夏では、異性の髪を梳いて結うのは夫婦か、それに近い関係でないと許されないって話だったよな」
「確かに、あれは実に興味深い話だった。まさか遠い華夏の地に住む人間にも猫型妖精と同じ慣習があろうとは思いもよらなかった」
オシアンがさらりとそう言ったので、ヒルダはうっかり聞き流すところだった。しかし、彼女はその一言の中にとんでもない事実が含まれていることに気付いてしまった。
「……今、何て言った?」
振り返ると、オシアンが少し残念そうな顔をした。
「ヒルダ。君はどうして、我が上手く編めたと思った時に限って頭を動かすのだろうね」
かれこれ二十年以上前から、ヒルダの髪はオシアンが結っている。彼がヒルダの使い魔になったのは三十数年前のこと。それから最初の何年かは「若いご婦人にみだりに触れるものではないから」と、出来る限り距離を取りたがっていたのに、いつの間にか、こうして髪を結ってくれたり、猫の姿の時に撫でると喉を鳴らしながら頭を擦り寄せてくれたりするようになっていた。……最初の頃に比べて随分甘やかしてくれるなぁ、とは思っていたのだが。
「私たちが夫婦になったのはつい最近だよな?」
オシアンはヒルダの髪を編み直しながら、くつくつと笑った。
「その通りだよ、ヒルダ。だが、王からの愛を受け入れた者はその時点で妃として遇するのが、猫型妖精の掟なのでね」
ヒルダはもう一度頭を動かしそうになって思い留まった。代わりに、深呼吸を二回してから尋ねてみた。
「……身に覚えがないんだが、いつからそうなっていた?」
昨年秋にヒルダがオシアンへの想いを自覚するまで、二人の間には何もなかったはずだ。ヒルダは長いこと猫型妖精のことを少し特殊な猫ぐらいにしか思っていなかったから、猫の姿の彼を膝に抱いて愛撫したことも、そのまま寝落ちしてしまったことも一度ならずある。だが、ヒルダの記憶にある限り、彼から何かをしてきたことは一度もなかった。
「……君の中では、飼い猫からの親愛の仕草を飼い主として受け入れたという認識だったろうからね」
オシアンが、幾分か恨めしそうな苦笑を返した。
* *
二十五年前の嵐の夜。鎧戸を閉めようとしたヒルダが、窓の外に死んだはずの夫ロバートの姿を見つけてしまった。
その晩は、妖精たちの王の一人、嵐の王が狩りを行なっていたのだ。その嵐の王が従える妖精の騎士の群れの中に、ロバートはいた。妖精馬に騎乗し、下位の犬型妖精を連れて。
外が酷い嵐だということも構わず、ヒルダは扉を開けてロバートを追おうとした。雨の日の常としてその時も人間の姿を取っていたオシアンは、ヒルダを抱きしめるようにして取り押さえ、必死で言い聞かせた。
ロバートの肉体は卑劣な人狼によってヴァンパイアにされてしまったが、彼自身は死の瞬間まで高潔なままだった。故に、その騎士に相応しい精神を嘉した嵐の王が、彼の霊がヴァンパイアに吸収される前に配下に加えたのだろう、と。
それならば何故、ロバートは自分に気付いてくれないのか、とヒルダは泣き叫んだ。彼は本当に窓のすぐ側を駆けて行った。それに、妻である自分がこんなにも彼を呼んでいるのに、と。
オシアンはヒルダを宥めるように、その背を軽く叩きながら言い聞かせた。
嵐の王は、配下が生前の記憶を残すことを良しとしない。嵐の王に召された死者の霊が麾下に加わることを承知すれば、すぐに妖精騎士に変えて配下に加えるのだが、その時に生前の記憶を全て奪ってしまう。だから、ロバートはもはや、妻のヒルダのことも、妹のエズメのことも忘却し、嵐の王に従って外敵から連合帝国の勢力圏を護るためだけの存在に変わってしまったのだ。
「おそらく、ロバート殿は、死してなお君とエズメ嬢を永遠に護り続けたいと願い、代償に記憶を失ったのだよ」
オシアンに生前のロバートと直接の面識はなかった。だがロバートがヒルダに愛され、嵐の王に認められた騎士であることは間違いない。だから、彼が妻と妹を護るために妖精の騎士になったのだろうと確信していた。
ヒルダが嗚咽の声を漏らした。
「……馬鹿だよ、あいつは。私を護りたいなら、ずっと側にいてくれなきゃいけないのに!」
その通りだとオシアンは思った。そして自分なら、ヒルダから離れるような真似はしないのに、とも。
それでも、これだけは言い聞かせておかねばならなかった。
「残念ながら、ロバート殿は、もう嵐の王のものだ。だから彼を取り戻そうなどという素振りさえ見せてはならない。どの妖精の王も、自分のものを奪おうとする者には決して容赦をしないし、出来ないのだからね」
それ故に、どの王のものかが決まる前なら王同士で交渉も調停も可能だが、他の妖精の王の所有するものに手を伸ばすことは、妖精の王同士でも禁忌となっていることも、オシアンは伝えた。
ヒルダがようやくオシアンを見て、幼子のように問いかけた。
「……君でも、どうにもならないのか?」
「……どうすることも、出来ないのだよ」
愛する女主人の言葉よりも、妖精の王の立場の方が重い時がある。オシアンは即位の際、先王の轍を踏むまいと、こちらから戦を起こすことはしないと全ての国民に誓ったのだ。王の誓いの鎖は、使い魔契約の細い鎖よりも遥かに強く彼を縛っていた。
彼には、ヒルダが膝から崩折れるのと一緒に床に座り込み、激しく泣きじゃくる彼女を父親のように抱き締め、彼女が泣き疲れるまで、その背を擦り続けるしかなかった。
「そろそろ休んだ方が良い。また朝から出勤しなければならないのだろう?」
ヒルダが泣き疲れたところを見計らって、オシアンは優しくそう言い聞かせた。
「うん」
ヒルダが幼女のようにこくりと頷いたので、オシアンは何気なくこう申し出た。幼かった頃の妹や弟にそうしていたように。
「抱き上げて寝台まで連れて行こうか?」
「……いい。それよりも、猫の姿になって」
雨の夜は被毛が重くなるので猫の姿にはなりたくないのだが、ヒルダが望むのなら話は別だった。
「貴女の望むままに」
猫の姿になったオシアンを、ヒルダが抱き締めた。
「……もう、一人ぼっちにされるのは、嫌」
「心配しなくても、我は決して君を一人にはしない」
ヒルダが彼を猫だとしか思っていないことも、彼女の心にいるのは別の男だということも解っているのに、彼は彼女から離れることなどとても出来ないのだから。
結局オシアンは猫の姿のまま、ヒルダの腕の中で朝を迎えることになるのだが、事件はその朝に起きた。
この頃の彼は自分の理性を過信していた。猫の姿ならば間違いも起きようがないと思っていたのだ。




